武部欽一
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武部 欽一 | |
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誕生 |
1881年4月25日 石川県金沢(現・金沢市) |
死没 | 1955年8月2日(74歳没) |
職業 | 官吏、教育者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学法科大学 |
代表作 |
『日本教育行政法論』(1916年) 『勤労教育』(1929年) |
武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日[1] - 1955年(昭和30年)8月2日[2])は、日本の文部官僚。教育者。
経歴
[編集]金沢市出身[1]。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した[1]。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した[3]。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任[1]。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた[3]。
その後、日本青年館理事[3]、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事[4]、東京帝国大学講師[3]、慶應義塾大学講師を務めた[4]。
1951年(昭和26年)からは東京家政学院短期大学の学長・理事長を務めた[5]。
親族
[編集]- 父・武部直松 (1851-) ‐ 東京帝国大学書記官兼学生監。金沢藩士・武部守衛の長男。金沢医学校五等教師、石川県専門学校校長、第四高等学校 (旧制)幹事兼教師、文部省視学官を経て帝国大学へ転任。[6]
- 弟 武部六蔵(秋田県知事・満州国総務長官)
- 相婿・武村清 ‐ 佐香ハルの弟。新京工業大学学長。
栄典
[編集]著作
[編集]- 著書
- 『日本教育行政法論』 日本学術普及会〈教育講座〉、1916年10月
- 『勤労学校とはどんなものか』 社会教育協会〈社会教育パンフレツト〉、1926年9月
- 『ペスタロツチと勤労学校』 社会教育協会〈社会教育パンフレツト〉、1927年5月
- 『勤労教育』 隆文館、1929年7月
- 『教育者の生活安定と互助の精神』 全国教員互助会聯合会〈全国教員互助会聯合会パンフレツト〉、1937年2月
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
関連文献
[編集]- 「次官局長中の主要人物」(藤原喜代蔵著 『明治大正昭和 教育思想学説人物史 第四巻 昭和前期篇』 日本経国社、1944年6月 / 湘南堂書店、1980年9月復刻版)
公職 | ||
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先代 松浦鎮次郎 局長事務取扱 |
朝鮮総督府学務局長 1929年 - 1931年 |
次代 牛島省三 |
学職 | ||
先代 (新設) |
東京家政学院短期大学長 1951年 - 1955年 |
次代 藤本万治 |
その他の役職 | ||
先代 田代穣 |
学校法人東京家政学院理事長 1951年 - 1953年 |
次代 広瀬久忠 |
先代 戸田貞三 |
東京家政専門学校長 1951年 |
次代 (廃止) |