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梶山静六

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梶山 静六
かじやま せいろく
内閣広報室より公表された肖像
1996年 撮影)
生年月日 (1926-03-27) 1926年3月27日
出生地 日本の旗 日本 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市
没年月日 (2000-06-06) 2000年6月6日(74歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都中央区築地国立がんセンター中央病院[1]
出身校 日本大学工学部土木工学科卒業
陸軍航空士官学校卒業
前職 陸軍軍曹
会社員
所属政党 自由民主党佐藤派田中派小渕派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
工学士(日本大学・1949年
配偶者 梶山春江
子女 長男・梶山弘志(第25-26代経済産業大臣、衆議院議員)

内閣 第2次橋本内閣
在任期間 1996年11月7日 - 1997年9月11日

日本の旗 第60-61代 内閣官房長官
内閣 第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1997年9月11日

内閣 第1次橋本内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1996年11月7日

日本の旗 第52代 法務大臣
内閣 第2次海部内閣
在任期間 1990年9月13日 - 1990年12月29日

内閣 宇野内閣
在任期間 1989年6月3日 - 1989年8月10日

その他の職歴
日本の旗 第37代 自治大臣
第46代 国家公安委員会委員長
竹下内閣
1987年11月6日 - 1988年12月27日
日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
第2次田中角栄第2次改造内閣
1974年11月15日 - 1974年12月9日
日本の旗 衆議院議員
旧茨城2区→)
茨城4区
当選回数 9回
1969年12月27日 - 1976年12月9日
1979年10月8日 - 2000年6月2日
第62代茨城県議会議長
1967年2月1日 - 1969年7月3日
茨城県議会議員
1958年4月 - 1969年11月)
第33代 自由民主党幹事長
総裁:宮澤喜一
1992年12月 - 1993年7月
第35・37代 自由民主党国会対策委員長
総裁:海部俊樹宮澤喜一
1990年 - 1991年
1992年 - 1992年)
テンプレートを表示
宇野内閣にて(最前列左端の人物)

梶山 静六(かじやま せいろく、1926年大正15年〉3月27日 - 2000年平成12年〉6月6日[2])は、日本政治家位階正三位

内閣官房長官(第6061代)、法務大臣第52代)、通商産業大臣第49代)、自治大臣第36代)、国家公安委員会委員長第46代)、衆議院議員(9期)、自由民主党国会対策委員長(第35代・37代)、自由民主党幹事長(第29代)を歴任した。竹下派七奉行の1人に数えられる[3]

人物・来歴

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県議会議員

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茨城県出身。茨城県立太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)、陸軍予科士官学校陸軍航空士官学校(59期・軍曹)卒業後、日本大学工学部土木工学科卒業。家業の石材業を継ぐ。1955年茨城県議会議員選挙に当選[注釈 1]。初当選から暫く後の1958年総選挙では、川崎三蔵派の運動員として買収に関わったとして逮捕。起訴されるが弁護側の証人だった川崎の秘書が、「買収したのは自分で梶山は無関係」と証言したことで無罪となった[注釈 2]

1966年茨城県議会黒い霧事件が表面化した際にも、逮捕された外岡佐近県議が「梶山から現金を貰った」と証言したことから梶山も取り調べを受けた。だが外岡は水戸地検送検後に「西野(=恒郎県議)から貰った」と証言を翻したため梶山の立件を断念。県議会は自主解散に追い込まれ、出直し県議選の後の新県議会で県議会議長に選出される[4]

田中派・竹下派

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県議会議長就任後、茨城県を訪れた田中角栄から直接国政進出を打診され、1969年12月、自由民主党公認で第32回衆議院議員総選挙に出馬し初当選(当選同期に綿貫民輔林義郎塩崎潤森喜朗村田敬次郎松永光江藤隆美中山正暉浜田幸一など)。自民党では佐藤栄作派→田中角栄派に属した。

ロッキード事件で逮捕された田中が出所したときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と真っ先に迎えに行き、それが祟って落選した経験を持つほど田中に心酔していた。しかし、1985年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力する。当選同期の奥田敬和、小沢、羽田孜渡部恒三、2期上の小渕恵三橋本龍太郎らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。1987年11月、竹下内閣自治大臣国家公安委員長として初入閣。その後も通産大臣法務大臣、官房長官などを歴任した。

北朝鮮による日本人拉致を認める政府初の公式答弁

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1988年3月参議院予算委員会で日本共産党橋本敦が、1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、さらに「李恩恵」(田口八重子)及び金賢姫等について質問を行う。これに対し当時国家公安委員長であった梶山は、

「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、御家族の皆さん方に深い御同情を申し上げる次第であります」

— 参議院予算委員会. 第112回国会. Vol. 15. 26 March 1988.

と答弁した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。これに続き外務大臣宇野宗佑は「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。法務大臣林田悠紀夫は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」「判明したならばそこで処置」と、更に警察庁警備局長城内康光は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。

1997年に横田めぐみの拉致が発覚した時には、梶山は内閣官房長官だった。同年5月1日の参議院決算委員会では、吉川芳男議員(自民党)の質問に対して、次のように述べた。

「私が昭和六十三年、ちょうど事件が起きてから既に十年をたった時代でありますが、今でもこの北朝鮮による拉致の疑いが極めて濃厚であるという判断に間違いはございません。ただ、国交のない国で事実を確定することができる手段、方法を持っておりません。(中略)(引用者注:橋本龍太郎)総理が今回訪米をされたことでも、(中略)食糧援助についての話し合いが出たと思いますけれども、我々国民は極めてこの拉致事件等、人道に大きな影響を持つその疑いを北朝鮮に持っているという事実、それから今覚せい剤の話が出ましたけれども、これまた麻薬や薬物に対する極めて高い関心をお互いに国際社会で持っている、その北朝鮮からストレートに来たという事実、こういうものを見ればにわかに、国際世論の中で人道的な意味でということが言われるかもしれませんが、片や人道的なことをしているのかどうなのか、あるいは麻薬や薬物等をとにもかくにも資金源に調達をする手段としている北朝鮮に果たしてそういうものが有効なのかどうなのか、あるいはしなければならないのかどうなのかというのは国民の間にはたくさんの疑問があるわけであります。

— 参議院決算委員会. 1 May 1997.

一六戦争・保保連合

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1992年東京佐川急便事件を発端にした竹下派(経世会)会長・金丸信の失脚・政界引退により、派閥会長の後継問題が浮上する。会長代行[注釈 3]の小沢に反発する梶山らは後継会長に小渕を推し、羽田孜を推した盟友関係の小沢と対立した(一六戦争)。結局、参院を抑えた小渕が後継会長に決定したが、小沢や羽田等は派中派の改革フォーラム21を結成して経世会は内部分裂状態となった。梶山は自民党幹事長に就任するが、これに反発する小沢系は正式に派閥を離脱し羽田派となる。さらには梶山が消極的であった政治改革関連4法案の否決を受け、羽田派のうち34人に加えて一部の他派議員が内閣不信任決議に賛成し、羽田派に加えて武村正義らのグループなどが離党するに至る[注釈 4]。不信任成立を受けての1993年の総選挙で自民党は半数を回復できず野党に転落し、梶山ら執行部は一連の責任をとって退陣する。細川内閣樹立の立役者となったライバルの小沢とは対照的に、梶山は「自民党下野のA級戦犯」と言われ、1994年6月に自社さ連立政権が誕生し自民党が与党に復帰するまで、謹慎生活を余儀なくされた。

1995年9月の自民党総裁選では橋本総裁誕生の立役者となり、1996年1月に橋本内閣が発足すると、内閣官房長官に就任した。官房長官在任中特に1996年の総選挙後は、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を党内の亀井静香建設相らと模索し、幹事長の加藤紘一野中広務ら「自社さ派」と激しく対立。しかし、橋本や竹下が「自社さ派」に軸足を置いたため、1997年9月、官房長官を退任。竹下や野中との関係はこの頃から悪化した。

晩年

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1998年7月、第18回参議院議員通常選挙の敗北の責任をとり橋本が退陣を表明。後継を選ぶ自民党総裁選に、竹下や野中が推す小渕が名乗りを挙げると、それに対抗する形で小渕派を離脱し出馬を表明。梶山擁立のために佐藤信二菅義偉の二人が派閥を離脱。無派閥での自民党総裁選立候補は1972年に立候補制になって以来初めて。島村宜伸を選対本部長、麻生太郎を選対責任者に迎え、河野グループ(大勇会)、三塚派の亀井静香グループ、旧渡辺派のベテラン議員を中心に、派閥の枠を超えて推薦人を集めた。「不良債権処理を積極的に進める」などのハードランディング路線を訴え、結果、積極財政金融緩和を掲げる小渕には敗れたが、三塚派支援の小泉純一郎厚相の得票を上回った(小渕と梶山・小泉連合との差はわずか40票差だった)。無派閥となった梶山は当初最下位と言われていただけに、結果は大健闘だった。

2000年1月30日交通事故に遭ってから体調を崩し、3か月後の4月25日に政界引退を表明。同年6月6日午後3時45分、閉塞性黄疸のため国立がんセンター中央病院で死去、74歳だった[1]6月25日に投票が行われた第42回衆議院議員総選挙には長男の梶山弘志が後継者として茨城4区から出馬し、初当選を飾った。

略歴

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エピソード

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県議時代から「仏の六さん」と呼ばれ、温厚な人柄で知られた。しかし1976年の総選挙に落選し、厳しい浪人生活を送るうちに豹変。国政復帰後は周囲を畏怖させる「武闘派」の一人と目されるようになる。

幹事長時代、一六戦争で疑心暗鬼になりすぎた結果自民党の職員は小沢に近いと思い込み職員を信頼せず幹事長室に衝立を設置したり、職員の尾行をしていたと奥島貞雄浜田幸一から痛烈に批判されている。奥島によれば幹事長を退任するときに職員に「お前たちなんか、小沢のところへいけばいいんだ!!」と捨て台詞をはいて退室したという[7][8]

浜田は、梶山について、自著『日本をダメにした九人の政治家』で「独断専行で自由民主党をダメにした」と批判しているが、一方で「田中角栄を自らの首を賭けて守った」「田中が逮捕された時には見捨て、影響力が変わらないとみるやすり寄る連中よりはましで、きちんと筋をとおした」「政治力には、評価すべき点も多い」と、一定の評価をしている。

強面な風貌や政治手法、政局においての過激な発言などから「武闘派」と呼ばれたが、「日本人の血であがなった憲法9条の精神を捨ててはならない」と述べ[要出典]、海外での武力行使に慎重姿勢を見せるなどハト派としての一面もあった。生前、靖国神社に代わる新たな参拝施設の建設の必要性を真っ先に主張したのも彼である[要出典]。しかし、政治的には旧田中派では珍しく親台湾派に属し、1997年夏、朝鮮半島危機などを受けた橋本内閣の官房長官時代には、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しに関し、「周辺事態(周辺有事)の対象に台湾海峡も入る」と発言[9]。中国側の反発を招いた。

梶山は、自身の志を継ぐ将来のリーダー候補として、当時河野グループに在籍していた麻生太郎に多大な期待を寄せていたという[10][11]

中選挙区制下では常磐炭鉱日立製作所など労働組合の勢力が強かったことから日本社会党石野久男城地豊司らと激戦を展開する一方で、塚原俊郎塚原俊平父子とも同じ保守票を争奪していた。1994年衆議院選挙小選挙区制が導入された際、塚原俊平は「これで梶山先生と争わなくてすむので安心」と制度導入を歓迎した。

竹下派全盛期に当時の会長であった金丸信から「無事の橋本、平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と呼ばれていた。また、1998年の自由民主党総裁選挙に出馬した時は、田中角栄の娘である田中眞紀子に「凡人(小渕)、軍人(梶山)、変人(小泉)の争い」と評された。この「軍人」という表現は陸軍航空士官学校卒の経歴に由来する。

1998年の自民党総裁選に出馬する前に、経済企画庁長官を務めた田中秀征のところに 梶山から会いたいと連絡があった。梶山は机の上に経済の専門書を四、五冊重ねていて「いま勉強しても遅い。俺は大蔵省に騙された。この前はすまなかった。(消費税増税の確認をした)閣議の時のあんたの言う通りだった」と田中に謝罪した。そのとき田中は、「梶山とはこういう人だったのか、もっと早く知っていたら、別の付き合い方があった」と考えたという[12]

菅義偉は政治の師として梶山を上げており、第2次安倍内閣官房長官就任の際も、梶山の墓参りをして手本とする旨を表明した[13]

法務大臣在任時の大臣秘書官住田裕子(元検察官、現在は弁護士)が女性初の秘書官として就任していた。

著書

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  • 『破壊と創造 日本再興への提言』 2000年3月、講談社、ISBN 4062101661

論文

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所属団体

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脚注

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注釈

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  1. ^ この時の同期には山口武平をはじめ、久保田今朝武・薄井与兵衛・倉田辰之助ら後で茨城県議会で要職を占めたり地方政界で活躍した人物が多い。県会黒い霧事件では山口・久保田など逮捕・起訴された者が少なくない中で梶山は何とか逮捕を免れたことから、後に梶山が国政に転出した後まで彼ら県議ボスとの交友関係が長続きし、県会議員が国会議員と同等かそれ以上の影響力を持つ茨城自民党の体質を形作ったと言われている。
  2. ^ なお、この秘書は後に竹内藤男茨城県知事の特別秘書を務めている
  3. ^ 金丸失脚以前から小沢が就いていた常任ポスト
  4. ^ 離党のタイミングは武村らが先

出典

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  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2020年1月15日閲覧。
  2. ^ 梶山静六』 - コトバンク
  3. ^ 日外アソシエーツ『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 138頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 154頁
  4. ^ 歴代正副議長名簿”. www.pref.ibaraki.jp. 2021年4月28日閲覧。
  5. ^ 2020年12月23日 日本経済新聞『私の履歴書』
  6. ^ 「99年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』1999年11月3日朝刊
  7. ^ 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』(中央公論新社、2002年/中公文庫、2005年)
  8. ^ 浜田幸一「日本をダメにした九人の政治家」講談社(1993年12月)
  9. ^ 「軍人」の宿題への回答は 台湾有事、提起から四半世紀 ニュース・エディター 丸谷浩史 - 日本経済新聞 2021年5月20日
  10. ^ 2007年9月19日付『茨城新聞』朝刊 「麻生氏、きょう県連で演説 県内党員に支援訴え」
  11. ^ 『月刊現代』2003年10月号、68頁「没後3年 『梶山静六ブーム』永田町を駆ける」
  12. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P278
  13. ^ 菅官房長官「政治の力で危機突破」=故梶山長官の墓前に誓う 時事通信 2013年1月14日閲覧

参照文献

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  • 日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(日外アソシエーツ、2003年) ISBN 4816918051
  • 日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) ISBN 4816918922

関連文献

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関連項目

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議会
先代
登坂重次郎
日本の旗 衆議院商工委員長
1983年 - 1984年
次代
粕谷茂
先代
千ヶ崎惣右衛門
茨城県の旗 茨城県議会議長
第62代:1967年 - 1969年
次代
兼子松太郎
公職
先代
野坂浩賢
日本の旗 内閣官房長官
第60・61代:1996年 - 1997年
次代
村岡兼造
先代
長谷川信
日本の旗 法務大臣
第52代:1990年
次代
左藤恵
先代
三塚博
日本の旗 通商産業大臣
第49代:1989年
次代
松永光
先代
葉梨信行
日本の旗 自治大臣
第36代:1987年 - 1988年
次代
坂野重信
先代
葉梨信行
日本の旗 国家公安委員会委員長
第46代:1987年 - 1988年
次代
坂野重信
先代
大村襄治
日本の旗 内閣官房副長官 (政務担当)
1974年
次代
海部俊樹
党職
先代
綿貫民輔
自由民主党幹事長
第29代:1992年 - 1993年
次代
森喜朗
先代
村岡兼造
増岡博之
自由民主党国会対策委員長
第35代:1990年 - 1991年
第37代:1992年
次代
増岡博之
瓦力