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太田正孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
代議士初当選時における太田正孝の肖像写真

太田 正孝(おおた まさたか、1886年明治19年)11月13日 - 1982年昭和57年)7月10日[1])は、日本大蔵官僚政治家衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。

略歴

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静岡県出身。静岡商業学校七高を経て、1912年東京帝国大学法科大学経済学科(現・経済学部)を卒業し、大蔵省に入省(東京税務監督局兼主税局[2])。後に主計官となる。

1919年退官。政界入りするまでに報知新聞社副社長、中央大学教授等を務める。1924年には経済学博士号を取得。

1930年第17回衆議院議員総選挙立憲政友会公認で立候補し初当選。その後大蔵参与官大蔵政務次官などを歴任。1939年の政友会分裂に際し金光庸夫犬養健らとともに中立派に属す。1940年大政翼賛会政策局長に就任。その後翼賛政治会常任総務も務める。

終戦後の1945年11月には日本進歩党結成に参加、政調会長に就任する。同年12月2日には連合国軍最高司令官総司令部より日本政府を通じた逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)[3]があり、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に勾留されるが、1947年に不起訴処分となり釈放。

1951年公職追放解除後、1952年自由党公認で総選挙に立候補して当選し政界復帰。1955年第3次鳩山内閣自治庁長官として入閣。1959年には 第5回参議院議員通常選挙静岡県選挙区から出馬し、当選。1964年秋の叙勲で勲一等瑞宝章を受章(勲三等からの昇叙)[4]。1期のみで1965年に政界引退。1982年7月10日死去、95歳。死没日をもって正五位から従三位に叙される[5]

業績

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所属政党

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  • 公職追放前:立憲政友会→政友会中立派(金光派ともいう)→議員倶楽部→翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党
  • 公職追放解除後:自由党→自由民主党大野派

著作

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  • 『生活と税』(1925年3月、東京放送局より放送)、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、1925年11月、41~46頁
  • 『経済読本』日本評論社、1932年

脚注

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  1. ^ 太田 正孝https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%94%B0%20%E6%AD%A3%E5%AD%9Dコトバンクより2022年12月19日閲覧 
  2. ^ 『法政大学史資料集』法政大学百年史編纂委員会資料部会、1978年、48頁
  3. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号
  5. ^ 『官報』第16639号10-11頁 昭和57年7月17日号
公職
先代
川島正次郎
日本の旗 自治庁長官
第6代:1955年 - 1956年
次代
田中伊三次
議会
先代
木内四郎
日本の旗 参議院予算委員長
1963年 - 1964年
次代
寺尾豊
先代
塚田十一郎
日本の旗 衆議院予算委員長
1952年 - 1953年
次代
尾崎末吉
党職
先代
(結成)
自由民主党税制調査会長
初代:1955年 - 1956年
次代
植木庚子郎
先代
(結成)
日本進歩党政務調査会長 次代
木村小左衛門