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牧野良三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
牧野 良三
まきの りょうぞう
1932年
生年月日 1885年5月26日
出生地 日本の旗 日本岐阜県大野郡(現・高山市
没年月日 (1961-06-01) 1961年6月1日(76歳没)
死没地 日本の旗
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
前職 弁護士
所属政党立憲政友会→)
立憲政友会正統派→)
(興亜議員同盟→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
日本自由党→)
自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
法学博士東北大学
親族 牧野英一

日本の旗 第8代 法務大臣
内閣 第3次鳩山内閣
在任期間 1955年11月22日 - 1956年12月23日

選挙区 旧岐阜2区
当選回数 10回
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牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年明治18年)5月26日 - 1961年昭和36年)6月1日)は、日本政治家

来歴・人物

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旅館主・牧野伊平の三男として岐阜県大野郡(現・高山市)に生まれた。旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。

戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。政党解消後も翼賛議員同盟には所属せず、西尾末広松本治一郎河野一郎らと興亜議員同盟に所属したが、翼賛選挙に際しては大政翼賛会と妥協し、翼賛政治体制協議会の推薦候補となる[1]。このことが原因となり、戦後は公職追放された。

政治家としての業績は、第3次鳩山内閣法務大臣を務めたことや政友会総務、自由党日本民主党自由民主党の顧問などを歴任したことが挙げられる。弁護士として良三が創設した「牧野良三法律事務所」は、その後、新家猛を代表とする「新家法律事務所」に引き継がれ、1980年(昭和55年)に、坂野滋が第3代所長となり、1997年平成9年)4月、現在の名称「東京八丁堀法律事務所」となった[2]

法学者牧野英一は兄。兄弟そろって法学博士号を取得しており、英一・良三ともに高山市名誉市民である。

略歴

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1953年

著書

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  • 『投票用紙事件の表裏』牧野良三、1917年7月。 
  • 『政民両党の政策比較』文教社、1932年2月。NDLJP:1055141 
  • 『特別会計となつた通信事業 その沿革と内容に就て』社会教育協会、1934年5月。 
  • 『請負業者の所謂談合に就て』新家猛、1935年4月。 
  • 『所謂談合に関する研究資料』新家猛、1937年2月。 
  • 『林内閣を撃つ 自覚の一票、政府の退却』立憲政友会本部、1937年4月。NDLJP:1093011 
  • 『林内閣を撃つ 輿論政治か独善主義か』森田書房、1937年4月。NDLJP:1091627 
  • 『欧羅巴から日本を見る』社会教育協会〈教育パンフレット 第337輯〉、1939年4月。 
  • 『牧野理事長講演 商業人の覚醒』日本繊維製品小売商業組合連合会、1941年3月。NDLJP:1022781 
  • 『競争入札と談合』解説社、1953年9月。 
    • 『競争入札と談合』都市文化社〈建設新書 3〉、1984年9月。ISBN 9784924720497 
  • 『牧野良三』牧野良三刊行会、1962年6月。 
  • 『中橋徳五郎 伝記・中橋徳五郎』 上巻、大空社〈伝記叢書 179〉、1995年6月。ISBN 9784872364781 
  • 『中橋徳五郎 伝記・中橋徳五郎』 下巻、大空社〈伝記叢書 180〉、1995年6月。ISBN 9784872364798 

関連項目

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脚注

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公職
先代
花村四郎
日本の旗 法務大臣
第8代:1955年 - 1956年
次代
中村梅吉
議会
先代
山口喜久一郎
日本の旗 衆議院予算委員長
1955年
次代
三浦一雄