金子一平 (政治家)
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金子 一平 かねこ いっぺい | |
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生年月日 | 1913年2月12日 |
出生地 | 岐阜県吉城郡国府村(現高山市国府町) |
没年月日 | 1989年3月23日(76歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部(現東京大学) |
前職 | 大蔵官僚 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 |
親族 |
金子一義(長男・元衆議院議員) 金子俊平(孫・元衆議院議員) |
第35代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 第2次中曽根第1次改造内閣 |
在任期間 | 1984年11月1日 - 1985年12月28日 |
第83代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第1次大平内閣 |
在任期間 | 1978年12月7日 - 1979年11月9日 |
選挙区 | 岐阜県第2区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1960年11月21日 - 1986年6月8日 |
金子 一平(かねこ いっぺい、1913年2月12日[1] - 1989年3月23日[2])は、日本の政治家、大蔵官僚。衆議院議員(9期、自由民主党)。
来歴・人物
[編集]岐阜県吉城郡国府村(現高山市国府町)出身[1]。旧制斐太中学校、旧制浪速高等学校文科甲類を経て[3][4]、東京帝国大学法学部3年在学中に高等文官試験行政科、4年時に高文司法科・外交科合格。東京帝大卒業後の1937年 大蔵省入省。理財局外国為替管理部属[5]。
大蔵省出身の窪谷直光初代警察予備隊経理局長の下で会計課長、他に名古屋財務局直税部長などを経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に、旧岐阜2区から出馬し初当選。当選9回。自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸派)に所属。党内きっての財政、税制通として知られ、第1次大平内閣の大蔵大臣、第2次中曽根改造内閣の経済企画庁長官、自民党税制調査会長などを歴任。1986年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。同年、長男の一義に地盤を譲り政界引退[6]。
1989年3月23日、心不全のため死去[6]。76歳没。死没日をもって従五位から正三位に叙される[7]。墓所は高山市立国府小学校の裏に建てられている。
脚注
[編集]- ^ a b 国府町史刊行委員会 2009.
- ^ 衆議院、参議院 1990.
- ^ 「政界人物論――大蔵大臣 金子一平」『法令ニュース』第14巻第3号、税務経済社、1979年3月1日、30–33頁。出典中では「高山中学」としているが、高山に存在した「斐太中学」の誤りであると思われる。
- ^ 作道好男 & 江藤武人 1969.
- ^ 秦郁彦 2001.
- ^ a b 「財政通の元蔵相 金子一平氏死去」『中日新聞』1989年3月24日、31面。
- ^ 『官報』第63号12-13頁 平成元年4月1日号
参考文献
[編集]- 作道好男、江藤武人 編『麦生の床に百鳥の』 浪速高校編、財界評論新社〈旧制高等学校物語〉、1969年11月20日、588頁。NDLJP:9669409/350。
- 衆議院、参議院 編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』1990年11月、177頁 。
- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月、315頁。
- 国府町史刊行委員会 編『国府町史』 史料編2、国府町史刊行委員会、2009年3月1日、173頁。
議会 | ||
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先代 斎藤邦吉 |
衆議院大蔵委員長 1972年 |
次代 鴨田宗一 |
公職 | ||
先代 河本敏夫 |
経済企画庁長官 第35代:1984年 - 1985年 |
次代 平泉渉 |
先代 村山達雄 |
大蔵大臣 第83代:1978年 - 1979年 |
次代 竹下登 |