コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大口喜六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大口 喜六
おおぐち きろく
大口喜六の肖像写真
生年月日 明治3年5月25日1870年6月23日
出生地 三河国豊橋藩(現・愛知県豊橋市
没年月日 (1957-01-27) 1957年1月27日(86歳没)
出身校 東京帝国大学選科
前職 豊橋町長
所属政党 立憲政友会

初代 豊橋市長
在任期間 1907年1月7日 - 1912年1月10日

当選回数 10回
在任期間 1912年 - 1942年

第4代 豊橋市長
在任期間 1914年4月27日 - 1916年2月20日

第11代 豊橋市長
在任期間 1938年9月17日 - 1940年12月10日
テンプレートを表示

大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。

経歴

[編集]

大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。

政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。

1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年明治45年)に市長を退任した。

1912年(明治45年)から1942年(昭和17年)まで衆議院議員を10期務めた。その間、1914年(大正3年)から1916年(大正5年)、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)に豊橋市長に再任している。 1927年(昭和2年)3月、議会乱闘事件に関与したとして取り調べを受けるが、大口は大声を出しただけであると主張[1]、後日不起訴となる[2]1930年(昭和5年)には濱口内閣金解禁に反対して、石橋湛山小汀利得高橋亀吉らとともに全国を遊説した。1940年(昭和15年)国民更生金庫が設立され、その理事長に就任した。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けて再選した。

戦後、公職追放となり[3]、追放解除後の1953年(昭和28年)、豊橋市名誉市民となる。

1957年(昭和32年)1月27日、没した。

また、二連木城址(豊橋市仁連木町)に邸宅を建て、現在は大口公園となっている。

脚注

[編集]
  1. ^ 取り調べられた三代議士、暴行を否認『東京日日新聞』昭和2年3月30日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p238 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 暴行代議士十一人、正式起訴される『東京朝日新聞』昭和2年4月7日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p238)
  3. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛常任総務都協議会長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、464頁。NDLJP:1276156 

参考文献

[編集]
  • 豊橋百科事典 2006年(平成18年)12月1日発行 編集 豊橋百科事典編集委員会 発行 豊橋市文化市民部文化課
公職
先代
日本の旗 豊橋市長
初代:1907年 - 1912年
次代
高橋小十郎
先代
榊原辨吾
日本の旗 豊橋市長
第4代:1914年 - 1916年
次代
細谷忠男
先代
神戸小三郎
日本の旗 豊橋市長
第11代:1938年 - 1940年
次代
近藤寿市郎