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奥繁三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥 繁三郎
おく しげさぶろう
生年月日 (1861-08-01) 1861年8月1日
没年月日 (1924-09-08) 1924年9月8日(63歳没)

日本の旗 第18・21代 衆議院議長
在任期間 1914年3月17日 - 1914年12月25日
1920年6月29日 - 1923年2月16日
天皇 大正天皇

当選回数 8回
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奥 繁三郎(おく しげさぶろう、文久元年6月25日[1]1861年8月1日) - 大正13年(1924年9月8日[1][2])は、京都府出身の明治、大正時代の政治家。衆議院議長関西法律学校(現・関西大学)卒。

経歴

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山城国綴喜郡八幡(現・京都府八幡市)で、代々石清水八幡宮神官の奥家、季次の長男として生まれる[1][3]

1879年(明治12年)、京都府師範学校を卒業[1][2]。小学校訓導兼校長を務めた[2]。関西法律学校在学中に代言人試験に合格後、1888年に京都府会議員となる。

1898年3月、第5回衆議院議員総選挙に京都府第4区から出馬し衆議院議員に初当選[2]。1901年12月、第6回総選挙京都府第4区選出の喜多川孝経の辞職に伴う補欠として当選[4]。以後、第7回から第11回及び第14回総選挙で当選し、衆議を通算8期務めた[2]。 1914年、衆議院議長就任。

その他、京都ガス京津電軌の設立にも尽力。立憲政友会では、幹事、協議員、院内総務、幹事長、相談役などを務めた[5]

栄典

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親族

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  • 長男 奥主一郎(実業家・貴族院多額納税者議員・参議院議員)[3][5]

脚注

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  1. ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典』135頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆院議員名鑑』152頁。
  3. ^ a b 『大正過去帳』305頁。
  4. ^ 『官報』第5527号、明治34年12月4日。
  5. ^ a b 『立憲政友会功労者追遠録』113頁。
  6. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献

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  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
  • 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。


議会
先代
長谷場純孝
大岡育造
日本の旗 衆議院議長
第18代:1914
第21代:1920 - 1923
次代
島田三郎
粕谷義三