内海安吉
内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日[2] - 1976年4月11日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。
来歴・人物
[編集]1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。その後も1937年(昭和12年)第20回総選挙、1942年(昭和17年)第21回総選挙にそれぞれ立候補するがともに落選した。
戦後は内地に引き上げ、内海は鳩山一郎らの新党創設に参加し、日本自由党創立委員となる。1946年(昭和21年)戦後第一回目の総選挙となった第22回衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以来連続9回当選。同年5月、衆議院議員初当選直後の石巻市長選挙(全国初の市民による市長の直接選挙[3])に立候補したが、800票余りの最下位で落選した[3]。自由党では党務部長、総務などを歴任する。保守合同後は自民党に参加し、建設政務次官、衆議院建設委員長や内閣委員長を歴任した。地元の北上川総合開発を始めとし[1]、全国の河川や道路を現地調査し、土木政策に通じた。
1967年(昭和42年)の第31回総選挙には立候補せず、息子の内海英男に地盤を譲った。1976年(昭和51年)4月11日死去。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、91頁)
- 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』(2014年、編集・発行 - 石巻日日新聞社)
議会 | ||
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先代 浜地文平 |
衆議院懲罰委員長 1963年 - 1965年 |
次代 山本勝市 |
先代 福永健司 |
衆議院内閣委員長 1958年 - 1959年 |
次代 福田一 |
先代 佐藤虎次郎 |
衆議院建設委員長 1955年 |
次代 徳安実蔵 |