小山倉之助
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小山 倉之助(おやま くらのすけ、1884年(明治17年)3月21日[1] - 1956年(昭和31年)8月3日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。
経歴
[編集]宮城県本吉郡気仙沼本郷(後の気仙沼町[3]、現気仙沼市)で、小山長兵衛の二男として生まれる[4]。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[2][4]。
その後、九州林業取締役、樺太合同産業取締役、日本セメント取締役、帝国地方行政学会取締役、日本エタニットパイプ取締役、(株)行政学会印刷所社長などを務めた[2][3]。
1928年2月、第16回衆議院議員総選挙で宮城県第二区から出馬して当選[2]。以後、第17回、第19回、第20回総選挙で当選[2]。1942年4月の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した[2]。この間、商工大臣秘書官、阿部内閣商工参与官、小磯内閣農商政務次官、内閣委員、内務省委員、商工省参与、翼賛政治会政調理事などを務めた[2][3]。
戦後、公職追放となり[5]、追放解除後の1952年10月の第25回総選挙に改進党所属で宮城2区から出馬したが落選[6]。翌1953年4月の第26回総選挙で当選し[6]、衆議院議員を通算六期務め[2]、改進党中央常任委員に就任した[1]。
1954年7月に改進党を離党し、山下春江らと新党同志クラブを結成[7]、11月末に町村金五らが加わり新党同志会を結成した[8]。1955年2月の第27回総選挙(諸派)で落選した[6]。
翌1956年8月3日死去、72歳。死没日をもって正五位から従四位に叙され、木杯一組台付を賜った[9]。
著作
[編集]- 訳書
- フランツ・ロイテル著『シヤハト伝』千倉書房、1938年。
脚注
[編集]- ^ a b 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』148頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』116頁。
- ^ a b c 『翼賛議員銘鑑』74頁。
- ^ a b 『人事興信録』第14版 上、コ75頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、507頁。NDLJP:1276156。 )
- ^ a b c 『朝日選挙大観』453頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』638頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』641頁。
- ^ 『官報』第8889号298頁 昭和31年8月14日号
参考文献
[編集]- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。