永野茂門
永野 茂門 | |
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生誕 |
1922年6月28日 日本 大分県 |
死没 |
2010年1月4日(87歳没) 日本 神奈川県川崎市川崎区 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 |
1941 - 1945(帝国陸軍) 1951 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1980(陸自) |
最終階級 |
陸軍大尉(帝国陸軍) 陸上幕僚長たる陸将(陸自) |
除隊後 |
政治家(1986年-1998年) (自由民主党→) (新生党→) (新進党→) 自由党 |
永野 茂門 ながの しげと | |
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生年月日 | 1922年6月28日 |
出生地 | 日本 大分県 |
没年月日 | 2010年1月4日(87歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 正四位勲二等旭日重光章 |
第57代 法務大臣 | |
内閣 | 羽田内閣 |
在任期間 | 1994年4月28日 - 1994年5月8日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1986年7月8日 - 1998年7月7日 |
永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。陸上幕僚長、参議院議員(2期)、法務大臣などを歴任した。法務大臣は在任11日で辞任した。
来歴・人物
[編集]大分県出身。大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は電信第13聯隊中隊長、陸軍大尉。
戦後、公職追放を経て[1]、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となるも、1980年に宮永スパイ事件の責を取る形で時の防衛庁長官・久保田円次とともに辞任した。
1986年、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、名簿順位は25名中21位だったが、自民党の大勝により当選した(22位までが当選)[2]。第2次海部内閣で科学技術政務次官に就任。
1992年、第16回参議院議員通常選挙(比例区)で当選。同年に起きた東京佐川急便事件で竹下派が分裂し坂野重信・青木幹雄・藤井孝男などの参院幹部が小渕恵三支持に回ったのに対し、永野は同じ自衛官出身の田村秀昭、同年の参院選で当選した北澤俊美らとともに改革フォーラム21(羽田派)に参加。1993年、自民党を離党し、新生党結党に参加する。
翌1994年4月、細川護煕首相の突然の辞任を受け、新生党党首の羽田孜が内閣総理大臣に就任し、羽田内閣で法務大臣に任命される。この際、陸上幕僚長を経験した職業自衛官出身の大臣の誕生に対し、文民統制の観点から異議を唱える声も一部から上がった。法相就任直後、南京事件に関して毎日新聞のインタビューにおいて「私は、あの直後に南京に行っている。南京大虐殺はでっち上げだと思う。」と発言。また、同4月28日、共同通信で「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない。」などと述べ、この発言は5月4日と5日の新聞朝刊で報道された。
上述の発言の責任を取らされ、事実上更迭される形で在任わずか11日で法務大臣を辞任した(戦後大臣通算在任記録では、2007年に遠藤武彦農林水産大臣の在任が8日間となるまで、同じ法務大臣を1988年暮れに4日間で辞任した長谷川峻に次ぐ記録である)。なお、法相在任期間が短かったため、死刑執行起案書はまわってこなかった。
その後新進党、自由党を経て、1998年の第18回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界を引退した。同年勲二等旭日重光章受章[3]。
2010年1月4日、肺炎のため神奈川県川崎市川崎区の病院で死去[4]。87歳没。没後、正七位から正四位に進階[5]。
著書
[編集]- 『宇宙時代の防衛 : 衛星・通信・情報』原書房、1986年3月25日。
- 『国際貢献と平和の地政学 : 21世紀・日本の進路』インターボイス出版事業部、1992年3月25日。
脚注
[編集]関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 三ヶ月章 |
法務大臣 第57代:1994年 |
次代 中井洽 |
議会 | ||
先代 井上計 |
参議院懲罰委員長 1995年 - 1996年 |
次代 吉田之久 |
その他の役職 | ||
先代 高品武彦 |
陸上幕僚長 第15代:1978年 - 1980年 |
次代 鈴木敏通 |