高品武彦
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高品 武彦 | |
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生誕 |
1922年1月12日 日本 東京府 |
死没 |
2004年12月18日(82歳没) 日本 東京都 新宿区 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 |
1940 - 1945(日本陸軍) 1952 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1979(陸自) |
最終階級 |
陸軍大尉(日本陸軍) 統合幕僚会議議長たる陸将(陸自) |
高品 武彦(たかしな たけひこ、1922年〈大正11年〉1月12日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(第54期)。第14代陸上幕僚長、第11代統合幕僚会議議長
略歴
[編集]父はグアムの戦いで戦死した第29師団長の高品彪陸軍中将[1]。高品朋陸軍少将は叔父にあたる。小学校を出てすぐ東京陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校へ進む[1]。1940年(昭和15年)、陸士卒業と同時に中国の華南に赴任した。太平洋戦争中は、マレー、シンガポール、スマトラを転戦し、1943年(昭和18年)に陸軍士官学校区隊長となり、大尉で終戦を迎えた[1]。
戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)9月、警察予備隊に入隊。その後、陸上自衛隊では第3師団長、防大幹事、幹部学校長、東部方面総監等を歴任し、1977年(昭和52年)10月、第14代陸上幕僚長に就任。1978年(昭和53年)7月には事実上解任された栗栖弘臣の後任の第11代統合幕僚会議議長に就任した。三矢研究では中心的役割を果たしたとされる。
年譜
[編集]- 1940年(昭和15年)9月:陸軍士官学校卒業(第54期)。陸軍少尉に任官
- 1945年(昭和20年)8月:大尉で終戦を迎える。
- 1947年(昭和22年)11月28日:公職追放仮指定[2]
- 1952年(昭和27年)9月:警察予備隊入隊(1等警察士)
- 1953年(昭和28年)4月16日:3等保安正
- 1964年(昭和39年)
- 1月1日:1等陸佐に昇任
- 7月16日:陸上幕僚監部第3部防衛班長
- 1967年(昭和42年)7月17日:第3普通科連隊長兼名寄駐とん地司令
- 1969年(昭和44年)3月17日:第1師団司令部幕僚長
- 1970年(昭和45年)7月16日:陸上自衛隊富士学校普通科教育部長
- 1971年(昭和46年)3月16日:陸将補に昇任
- 1972年(昭和47年)3月16日:陸上幕僚監部第3部長
- 1974年(昭和49年)3月16日:陸将に昇任、第3師団長に就任
- 1975年(昭和50年)3月17日:防衛大学校幹事
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)10月20日:第14代 陸上幕僚長に就任
- 1978年(昭和53年)7月28日:第11代 統合幕僚会議議長に就任
- 1979年(昭和54年)8月1日:退官
- 1992年(平成 4年)4月29日:勲二等瑞宝章受章[3]
- 2004年(平成16年)12月18日:肺炎のため、東京都新宿区内の病院で逝去(享年82)[4]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 朝雲新聞(昭和52年11月10日)「この人と十分間」
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、174頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』号外第58号(平成4年4月30日)
- ^ 読売新聞(平成16年12月20日・第39面)
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