板谷隆一
生誕 |
1911年8月20日 日本 佐賀県三養基郡 |
---|---|
死没 |
1991年9月1日(80歳没) 日本 東京都 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 海上保安庁 海上警備隊 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
1929年 - 1945年(帝国海軍) 1952年 - 1954年(警備隊) 1954年 - 1971年(海自) |
最終階級 |
海軍中佐(帝国海軍) 統合幕僚会議議長たる海将(海自) |
除隊後 | 三菱重工業顧問 |
板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月20日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海兵60期次席。海兵同期に鈴木實、進藤三郎など。第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。
略歴
[編集]農業・板谷儀市の二男として佐賀県三養基郡中原村に生まれる。兄は真珠湾攻撃作戦時に空母「赤城」分隊長で、第一次攻撃隊制空隊長を務めた板谷茂(海軍中佐・海兵57期首席)。
旧制三養基中学を経て[1]、海軍兵学校60期を次席で卒業[2]。
海兵次席のエリートながら、日中戦争から太平洋戦争までほとんどの期間を第一線で勤務した。
1937年(昭和12年)8月9日に発生した大山事件(上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉(板谷と海兵同期)が殺害され、第二次上海事変のきっかけの一つとなった)を受け、8月11日に大山中尉の後任として上海海軍特別陸戦隊附 兼 第三艦隊司令部附となる。8月12日に始まった第二次上海事変において、板谷は中隊長として陸軍部隊進出までの苦しい1か月を戦った。
太平洋戦争では北方作戦、レイテ沖海戦など、常に洋上にあり、1945年(昭和20年)4月の戦艦「大和」(第二艦隊)の沖縄特攻には第二水雷戦隊参謀として旗艦「矢矧」に乗艦。米軍機の攻撃により矢矧は沈没するが、板谷は海上を泳いで僚艦の駆逐艦「雪風」に救助され、生還した。
戦後は、第二復員局博多復員人事部に勤務。その後、公職追放を経て、自動車工場や東京のホテルのドアボーイなどの職を転々とした。海上警備隊発足と同時に入隊し、横須賀地方監部訓練課長。海上警備隊が警備隊を経て海上自衛隊に改組されると、海上幕僚監部人事課長、第1護衛隊司令などを務め、1957年(昭和32年)8月からアメリカ合衆国海軍大学校に留学。帰国後は海上幕僚監部総務部長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監などの要職を歴任し、第7代海上幕僚長に就任した。その後、第5代統合幕僚会議議長を務め、1971年(昭和46年)7月に退官。退官後は三菱重工業顧問などを務めた。
年譜
[編集]- 1929年(昭和 4年)4月:海軍兵学校入校
- 1932年(昭和 7年)11月:海軍兵学校卒業(第60期、次席)
- 1934年(昭和 9年)4月:海軍少尉任官
- 1935年(昭和10年)11月:海軍中尉に進級
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1941年(昭和16年)9月10日:戦艦「長門」分隊長[12]
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)11月20日:第二水雷戦隊参謀[17]
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)11月18日:公職追放仮指定[24]
- 1952年(昭和27年)
- 1954年(昭和29年)
- 8月1日:1等海佐に昇任
- 9月20日:海上幕僚監部総務部人事課長
- 1956年(昭和31年)4月2日:第1護衛隊司令
- 1957年(昭和32年)
- 4月5日:海上自衛隊幹部学校研究部員
- 8月:アメリカ合衆国海軍大学校に留学
- 1958年(昭和33年)
- 6月:アメリカ合衆国海軍大学校卒業
- 8月1日:海上自衛隊幹部学校教育部学校教官第1教官室長
- 1959年(昭和34年)12月16日:海上自衛隊幹部学校教育部長
- 1961年(昭和36年)
- 1963年(昭和37年)7月16日:海上幕僚監部総務部長
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)7月1日:第9代 横須賀地方総監に就任
- 1966年(昭和41年)4月30日:第7代 海上幕僚長に就任
- 1967年(昭和42年)2月14日:米国政府からレジオン・オブ・メリット勲章を受章[25]
- 1969年(昭和44年)7月1日:第5代 統合幕僚会議議長に就任
- 1971年(昭和46年)7月1日:退官
- 1981年(昭和56年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[26]
- 1991年(平成 3年)9月1日:心不全のため三宿病院で逝去(享年80)、叙・正四位[27]
栄典
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 秦 2005, p. 184, 板谷茂
- ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴 期別索引
- ^ 「昭和12年8月11日 海軍辞令公報 号外 第24号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072200
- ^ 「昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 第99号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072800
- ^ 「昭和13年6月1日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ 「昭和13年7月11日 海軍辞令公報(部内限)号外第209号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ 「昭和13年8月15日 海軍辞令公報(部内限)号外第225号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ 「昭和13年12月15日 海軍辞令公報(部内限)号外第273号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074900
- ^ 「昭和14年4月1日 海軍辞令公報(部内限)第321号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075600
- ^ 「昭和14年6月1日 海軍辞令公報(部内限)第342号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075900
- ^ 「昭和14年12月1日 海軍辞令公報(部内限)第408号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077100
- ^ 「昭和16年9月10日 海軍辞令公報(部内限)第708号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000
- ^ 「昭和17年9月17日 海軍辞令公報(部内限)第943号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086900
- ^ 「昭和17年11月1日 海軍辞令公報(部内限)第974号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700
- ^ 「昭和18年3月1日 海軍辞令公報(部内限)第1062号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900
- ^ 「昭和19年10月13日 海軍辞令公報(部内限)第1237号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800
- ^ 「昭和19年11月28日 海軍辞令公報 甲 第1654号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000
- ^ 「昭和20年5月17日 海軍辞令公報 甲 第1802号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104900
- ^ 「昭和20年9月17日 海軍辞令公報 甲 第1916号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107400
- ^ 「昭和20年9月11日 海軍辞令公報 甲 第1908号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107300
- ^ 「昭和20年10月1日 海軍辞令公報 甲 第1936号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072143000
- ^ 「昭和20年11月19日 海軍辞令公報 甲 第1986号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072143600
- ^ 「昭和20年12月21日 第二復員省辞令公報 甲 第18号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、21頁。NDLJP:1276156。
- ^ 朝雲新聞(昭和42年2月23日)
- ^ 『官報』号外第97号(昭和56年11月6日)
- ^ 『官報』本紙第746号(平成3年10月3日)
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 『20世紀日本人名事典 (あ-せ)』日外アソシエーツ、2004年。
- 『世界の艦船』2002年5月増刊号 海上自衛隊の50年(海人社)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|