長田博
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生誕 |
1927年9月6日 日本 神奈川県 |
死没 |
2013年12月1日(86歳没) 日本 東京都世田谷区 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
1944年 - 1945年(帝国海軍) 1953年 - 1954年(警備隊) 1954年 - 1987年(海自) |
最終階級 |
海軍兵学校生徒(帝国海軍) 海上幕僚長たる海将(海自) |
長田 博(ながた ひろし、1927年〈昭和2年〉9月6日 - 2013年〈平成25年〉12月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。第24代自衛艦隊司令官を経て第16代海上幕僚長を務めた。海軍兵学校出身最後の海上幕僚長(海兵76期)。
略歴
[編集]1944年(昭和19年)10月、海軍兵学校に第76期生として入校する。終戦により、海軍兵学校が閉校となり第2学年扱いで修了となる。その後、第一水産講習所に入学[1]。卒業後は、日魯漁業に入社し、トロール船に乗組む。1953年(昭和28年)8月、海軍ができると聞き、保安庁警備隊に応募し、三等警備士で入隊する[1]。職種は砲術、ターター・システム導入に備えて第1回米留、帰国後は「あまつかぜ」砲雷長。念願の艦長は護衛艦「きたかみ」の1回だけで、以後、海幕防衛畑を歩む[1]。4次防、53中業を手掛け、海上幕僚監部防衛部長として56中業をまとめ、海上防衛力の整備に尽力した[1]。その後、呉地方総監、自衛艦隊司令官を経て、第16代海上幕僚長に就任。「新・八八艦隊」などと俗称される「八艦八機」体制の生みの親であり、退官に際して「海軍兵学校出身の最後の海幕長」として朝日新聞「この人」欄に取り上げられた。退官後は、艦船総合情報誌「世界の艦船」に高い頻度で執筆・寄稿したことでも知られた。
なお、自衛艦隊司令官は横須賀地方総監と同等の政令指定職5号ポストであり海幕長への登竜門となっているが、自衛艦隊司令官から海幕長への昇格は長田を最後に23年間、杉本正彦が就任するまで途絶えることとなる。
年譜
[編集]- 1944年(昭和19年)10月:海軍兵学校入校(第76期)
- 1945年(昭和20年)10月:終戦により第2学年(2号生徒)扱いで修了する。
- 1953年(昭和28年)8月:保安庁警備隊に三等警備士で入隊(第4期幹部講習員)
- 1967年(昭和42年)
- 1971年(昭和46年)7月1日:1等海佐に昇任
- 1973年(昭和48年)12月16日:第2護衛隊群司令部幕僚
- 1975年(昭和50年)7月1日:海上幕僚監部防衛部防衛課防衛班長
- 1976年(昭和51年)12月1日:海上幕僚監部防衛部防衛課長
- 1978年(昭和53年)3月16日:海将補に昇任
- 1979年(昭和54年)2月1日:第1潜水隊群司令に就任
- 1980年(昭和55年)7月1日:海上幕僚監部防衛部長
- 1981年(昭和56年)2月16日:海将に昇任
- 1982年(昭和57年)3月16日:第18代 呉地方総監に就任
- 1983年(昭和58年)12月20日:第24代 自衛艦隊司令官に就任
- 1985年(昭和60年)8月1日:第16代 海上幕僚長に就任
- 1987年(昭和62年)7月7日:退官
- 1997年(平成 9年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[2][3]
- 2013年(平成25年)12月1日:自衛隊中央病院にて心不全のため死去(享年86歳)[4]叙・正四位[5][6]
栄典
[編集]関係する人物
[編集]- 香田洋二(娘婿、36代自衛艦隊司令官)
脚注
[編集]- ^ a b c d 海上自衛新聞・1985年(昭和60年)9月8日(日)第3面「海上幕僚長・長田博に聞く」
- ^ 『官報』号外220号(平成9年11月4日)
- ^ 「97年秋の叙勲受章者勲三等以上の一覧」『読売新聞』1997年11月3日朝刊
- ^ “元海上幕僚長、長田博氏が死去”. 産経新聞(MSN産経ニュース) (2013年12月2日). 2018年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月7日閲覧。
- ^ 『官報』本紙6206号(平成26年1月10日)
- ^ “長田博氏が死去 元海上幕僚長”. 日本経済新聞 (2013年12月3日). 2021年1月17日閲覧。
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