江藤智 (政治家)
江藤 智 えとう あきら | |
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生年月日 | 1907年1月19日 |
出生地 | 日本・山口県下関市貴船町 |
没年月日 | 1982年6月26日(74歳没) |
出身校 | 京都帝国大学工学部土木工学科 |
所属政党 |
(無所属→) 自由民主党 |
第45代 運輸大臣 | |
内閣 | 第2次田中角榮第2次改造内閣 |
在任期間 | 1974年11月11日 - 1974年12月9日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1956年 - 1982年 |
江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日[1][2][3] - 1982年(昭和57年)6月26日[3][4])は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。
経歴
[編集]山口県下関市[5]貴船町[1]で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた[1]。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て[1][2]、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業[1][2][3][4]。同年4月、鉄道省に入省した[1][2][3]。
函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任[1]。
1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された[6]。1953年(昭和28年)11月、関西総支配人、1954年(昭和29年)2月、兼大阪鉄道管理局長を務め、1955年(昭和30年)12月に国鉄を退職した[1]。
1956年(昭和31年)に第4回参議院議員通常選挙全国区に出馬し初当選[2][3][7]。以後、5期26年務めた[2][3][4]。この間、鉄道建設審議会委員、第2次池田内閣・経済企画政務次官、参議院運輸委員長、参議院自由民主党国会対策委員長、同議員副会長、自民党総務副会長などを務めた[4]。
第2次田中角榮内閣第2次改造内閣で運輸大臣として入閣[1][2][3][4]。しかし、この内閣は田中金脈問題で28日後に総辞職をし、閣僚在任わずか29日に留まった上、その後再入閣することはなかった。
1980年(昭和55年)第12回通常選挙の直後に脳溢血で倒れ[2]、1982年6月26日、心不全で死去した[2]。75歳没。
国政選挙歴
[編集]- 第4回参議院議員通常選挙(1956年7月、全国区、無所属)当選[7]
- 第6回参議院議員通常選挙(1962年7月、全国区、自由民主党)当選[8]
- 第8回参議院議員通常選挙(1968年7月、全国区、自由民主党)当選[9]
- 第10回参議院議員通常選挙(1974年7月、全国区、自由民主党)当選[10]
- 第12回参議院議員通常選挙(1980年6月、全国区、自由民主党)当選[11]
著作
[編集]- 『鉄道操車場の設計と保線』鉄道現業社、1956年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『防長人物百年史』481頁。
- ^ a b c d e f g h i 『昭和山口県人物誌』78頁。
- ^ a b c d e f g 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』96頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』260頁。
- ^ 第96回国会 参議院 本会議 第22号 昭和57年7月9日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム
- ^ 江藤智『重力操車場の設計について』1952年 。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』546頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』548頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』551頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』552頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』555頁。
参考文献
[編集]- 末弘錦江『防長人物百年史』山口県人会、1966年。
- 中西輝磨『昭和山口県人物誌』マツノ書店、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
公職 | ||
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先代 徳永正利 |
運輸大臣 第44代:1974年 |
次代 木村睦男 |
議会 | ||
先代 春日正一 |
参議院懲罰委員長 197?年 - 1977年 |
次代 河田賢治 |
先代 松平勇雄 |
参議院運輸委員長 1966年 - 1967年 |
次代 天坊裕彦 |