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大竹平八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年明治37年)2月8日[1][2]1985年昭和60年)5月17日[2][3]) は、大正から昭和期のジャーナリスト政治家参議院議員

経歴

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群馬県[2]群馬郡渋川町[1]北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町[1])で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた[1]。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し[1]、上京して[1] 独学[3]

1926年(大正15年)帝国通信社に入社し[3]無産政党、労働問題の担当記者となる[1]。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任[1][3]。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた[1][3]。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる[1][3]。また廣池千九郎に協力して廣池学園の創設に尽力し理事に就任[1]

1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙全国区から出馬して初当選し[1][2][4]、その後、第6回第8回通常選挙でも再選され[5]、参議院議員に連続3期在任した[1][2][3]。この間、同志会国会対策部長、参議院大蔵委員長、同災害対策特別委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長、参議院物価等対策特別委員長、選挙制度審議会特別委員、参議院予算委員長自由民主党遊説局長、同総務などを務めた[1][2][3]

また、廣池学園の麗澤大学の設立に尽力した[1]

1974年(昭和49年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[6][7]

1985年(昭和60年)5月17日死去、81歳。死没日をもって正四位に叙される[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『群馬県人名大事典』100頁。
  2. ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典』113頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』268頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』546頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』549、551頁。
  6. ^ 大竹 平八郎https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%AB%B9%20%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8Eコトバンクより2022年12月19日閲覧 
  7. ^ 『官報』第14202号8頁 昭和49年5月4日号
  8. ^ 『官報』第17486号13-14頁 昭和60年5月27日号

参考文献

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  • 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
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