コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

木村篤太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村篤太郎
きむら とくたろう
法務総裁時代の木村(1952年)[1]
生年月日 (1886-02-07) 1886年2月7日
出生地 日本の旗 日本 奈良県五條町
没年月日 (1982-08-08) 1982年8月8日(96歳没)
出身校 東京帝国大学法学部卒業
(現・東京大学法学部
前職 弁護士
所属政党無所属→)
自由民主党石井派
称号 正三位
勲一等瑞宝章
勲一等旭日大綬章
全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰

内閣 第5次吉田内閣
在任期間 1954年7月1日 - 1954年12月10日

日本の旗 初-第2代 保安庁長官
内閣 第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
在任期間 1952年10月30日 - 1954年6月30日

日本の旗 初代 法務大臣
内閣 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1952年8月1日 - 1952年10月30日

内閣 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1952年1月18日 - 1952年4月5日

日本の旗 第6代 法務総裁
内閣 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1951年12月26日 - 1952年8月1日

その他の職歴
日本の旗 第47代 司法大臣
第1次吉田内閣
1946年5月22日 - 1947年5月24日
日本の旗 第19代 検事総長
(1946年2月8日 - 1946年5月22日)
日本の旗 参議院議員
奈良県選挙区
当選回数 2回
1953年4月24日 - 1965年6月1日
テンプレートを表示
1952年(昭和27年)の全日本剣道連盟結成時。前列中央が木村篤太郎、隣は中山博道
木村篤太郎翁像(正木坂剣禅道場

木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年明治19年〉2月7日 - 1982年昭和57年〉8月8日[2])は、日本政治家検察官弁護士剣道家である。

検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣初代)、保安庁長官初代)、防衛庁長官初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。

略歴

[編集]

来歴、人物

[編集]

政治家

[編集]

太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した[5]

その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時法務府初代総裁として再入閣。法務総裁時代に治安警備状況に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された[6]。さらに1953年の参院選で奈良県から参議院議員に当選し、2期務めた。

法務総裁・法務大臣としては日本共産党による暴力革命への懸念から治安対策の立案の中心となり、自ら提出した破壊活動防止法(破防法)を成立させた。1952年(昭和27年)5月1日に発生した血のメーデー事件では不信任案が提出されるものの否決され、切り抜けている。血のメーデー事件の騒乱は法務総裁室から目撃しており、取材に対して「あれは革命の予行演習」「何も知らないアメリカ人にあんな暴行を加えた如きは、独立したばかりの日本に大きな汚点を残した」と語り、事件翌日の衆議院法務委員会公聴会では、破防法さえあったら事件は起きなかったという趣旨の発言を述べた[1]

安保闘争当時は警察力を補うため全国の博徒的屋愚連隊を結集した“反共抜刀隊”計画を元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に持ちかけた。この動きは梅津の死後森田政治に引き継がれ、日本国粋会の結成に繋がっている。

警察予備隊から保安隊警備隊へと繋がる再軍備政策にも関与し、保安庁長官(自衛隊発足後は横滑りで防衛庁長官)や隊友会会長を務めた。保安庁長官時代1953年(昭和28年)6月9日、記者団に、警備5か年計画について発言し(1957年度に保安隊20万人、艦船十数万トン、航空機千数百機の再現をめざす長期防衛計画)、問題化した。翌1954年(昭和29年)に予備自衛官制度を設けた。

政界引退後は1967年(昭和42年)10月に自由民主党院外団「自由民主党同志会」会長に就任し、死去するまでその座にあった。加えて街商組合(的屋の寄り合い)顧問の繋がりから院外団の政治活動の裏幹事的立場にもあった。

剣道家

[編集]

高校では撃剣部(剣道部)に入部し北辰一刀流小林定之に剣道を学んだ。勉学より剣道を優先し早朝から稽古に励んだという。2年生のとき、剣道部員7人と家を借り、を出て自炊生活を始める。大学でも撃剣部に属して木下寿徳山里忠徳中山博道の師範に学んだ。出稽古に訪れた学習院院長乃木希典の相手を務めたこともあった。

1941年(昭和16年)、大日本武徳会剣道部会長に就任。同年、中倉清ら剣道家が流派派閥を超えた剣道会を作りたいと木村に相談し、木村は快諾して『論語』から「思斉会」と名付け、自ら会長に就任した。思斉会は戦後の剣道復興に多大な貢献をもたらすこととなった。

終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散し、剣道の組織的活動は禁止され、1947年(昭和22年)5月に木村も公職追放されたが、剣道復興に尽力した。1952年(昭和27年)、禁止令が解除。同年10月14日、全日本剣道連盟発足と同時に会長に就任した。

1974年(昭和49年)、会長を退き名誉会長に就任。後任の会長は元最高裁判所長官石田和外であった。1985年、奈良県の芳徳寺正木坂剣禅道場に「木村篤太郎翁像」が建立された。

日本刀を蒐集し、国宝重文級のものはすべて財団法人刀剣博物館に寄贈した。愛刀は長曽禰虎徹興正。高齢になっても居合の稽古を欠かさず、剣道大会で居合を演武したこともあった。

実業家

[編集]

岳父の井上篤太郎が社長だった京王電気軌道(現・京王電鉄)の専務取締役を務めたことがある。

栄典

[編集]

生家

[編集]

木村の生家は現在も五條市の新町通り(五條新町)に残っており、「まちや館」として勉強部屋や遺品が公開されている。

遺訓

[編集]
  • 「一源三流」という語を好んで揮毫した。
  • 「浪人訓」は自由民主党同志会の標語になっている。内容は以下のとおり。
その位にあらずともその事を行ない自家の米塩を憂えずして国家の経綸志すものは浪人なり。即ち浪人は政府または人民より頼まるるに非ずして、自ら好んで天下の事に当たる。 — 昭和53年4月19日、同志会で開かれた卒寿祝賀会にて木村本人示す

著書

[編集]
  • 卆翁百話 抜抄(1984年11月、木村篤太郎顕彰会)
  • 卆翁百話―文と武の遺文(1989年10月10日、島津書房ISBN 978-4882180210

参考文献

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 東京メーデー騒擾事件特集[告知板]治安関係首脳者『アサヒグラフ』1952年5月21日号22頁
  2. ^ 木村篤太郎』 - コトバンク
  3. ^ 「二万余名を追放解除」『日本経済新聞』昭和25年10月14日1面
  4. ^ 木村篤太郎”. www6.plala.or.jp. 2024年11月27日閲覧。
  5. ^ 日本国憲法の御署名原本 国立公文書館(2024年5月2日閲覧)
  6. ^ 第13回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第21号 昭和27年4月25日

関連項目

[編集]
公職
先代
(保安庁長官から)
日本の旗 防衛庁長官
1954年
次代
大村清一
先代
吉田茂
日本の旗 保安庁長官
1952年 - 1954年
次代
(防衛庁長官へ)
先代
橋本龍伍
日本の旗 行政管理庁長官
1952年
次代
野田卯一
先代
(法務総裁から)
日本の旗 法務大臣
1952年
次代
犬養健
先代
大橋武夫
日本の旗 法務総裁
1951年 - 1952年
次代
(法務大臣へ)
先代
岩田宙造
日本の旗 司法大臣
1946年 - 1947年
次代
片山哲
司法職
先代
中野並助
日本の旗 大審院検事総長
1946年
次代
福井盛太