春木義彰
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春木 義彰(はるき よしあき、1846年1月27日(弘化3年1月1日) - 1904年(明治37年)12月17日[1])は、日本の司法官僚。検事総長、貴族院勅選議員。
経歴
[編集]大和国平群郡法隆寺村(現在の斑鳩町)出身。春木義道の二男[2]。伴林光平の弟子で、師が天誅組の変に加わって処刑されると、その遺志を継ぎ、1865年(慶応元年)に京都に入って志士と交わった。1867年(慶応3年)、鷲尾隆聚が倒幕の密勅を奉じて高野山で挙兵すると、大坂で軍費調達にあたった。翌年、鳥羽・伏見の戦いが起きると、高野山に駆けつけ、錦旗奉行・兵糧奉行に任じられた。その後、奥羽追討総督となった鷲尾に従い、白河口軍務応接係・書記として各地を転戦した。1869年(明治2年)、兵部省の命を受け、脱走が相次いでいた十津川郷士の鎮撫にあたった。
五条県や奈良県の地方官を経て、1873年(明治6年)からは司法官に転じた。累進して、1892年(明治25年)に検事総長に就任した[3]。1898年(明治31年)に東京控訴院長に転じ、1903年(明治36年)に休職を命じられた。
1904年(明治37年)8月22日、貴族院議員に勅選された[4][5]が、同年12月に死去した[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1881年(明治14年)1月21日 - 従六位[6]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[7]
- 1890年(明治23年)8月6日 - 従四位[8]
- 1895年(明治28年)9月25日 - 正四位[9]
- 1900年(明治33年)11月30日 - 従三位[10]
- 1904年(明治37年)
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[13]
- 1890年(明治23年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[14]
- 1892年(明治25年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[15]
- 1894年(明治27年)6月19日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1895年(明治28年)3月12日 - 木杯一個[17]
- 1901年(明治34年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[18]
- 1904年(明治37年)12月17日 - 旭日重光章[19]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第6443号、明治37年12月20日。
- ^ 人事興信所 1903, 112頁.
- ^ 『官報』第2747号、明治25年8月23日。
- ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、12頁。
- ^ 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
- ^ 判事人見恒民以下三十五名昇進ノ件・附検事犬塚盛巍以下十二名昇進ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2136号「叙任及辞令」1890年8月12日。
- ^ 『官報』第3674号「叙任及辞令」1895年9月26日。
- ^ 『官報』第5226号「叙任及辞令」1900年12月1日。
- ^ 『官報』第6366号「叙任及辞令」1904年9月16日。
- ^ 『官報』第6443号「叙任及辞令」1904年12月20日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
- ^ 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
- ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ^ 『官報』第3555号「彙報 - 褒賞」1895年5月9日。
- ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
- ^ 『帝国議会会議録』「第21回帝国議会・貴族院・議員の異動」。
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 『大和人物志』奈良県庁、1909年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 大塚正男 |
東京控訴院長 1898年 - 1903年 |
次代 長谷川喬 |
先代 石井忠恭 |
広島控訴院検事長 1890年 - 1892年 |
次代 奥山政敬 |
先代 中村修 函館控訴裁判所検事長 |
函館控訴院検事長 1886年 - 1890年 函館控訴裁判所検事長 1886年 |
次代 林三介 |
先代 (新設) |
長崎控訴裁判所検事長 1881年 - 1882年 |
次代 河野通倫 |