小沢愛次郎
小沢 愛次郎 | |
---|---|
| |
生年月日 | 1864年1月28日 |
出生地 | 武蔵国 |
没年月日 | 1950年6月19日(86歳没) |
称号 |
大日本武徳会剣道範士 全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰 |
当選回数 | 5回 |
当選回数 | 4回 |
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日[1][2]) - 1950年(昭和25年)6月19日[2][注 1])は、日本の政治家、剣道家。
埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。
経歴
[編集]武蔵国埼玉郡小針村[2](埼玉県北埼玉郡小針村、太田村[1]を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟[3]、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ[2]、桑崎村[2](岩瀬村[1]を経て現羽生市)の素封家[2]・小沢丈右衛門[3]の養子となる[1][2]。佐倉藩士・倉田幽谷[注 2]から盈進義塾で漢学を学んだ[2]。
1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場[2]で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ[1][2]。また、菊地為之助に神影流を学び、いずれも免許皆伝を許される[4]。
1891年(明治24年)[1][注 3]岩瀬村の自邸内に興武館を設け地元子弟の武道教育に当たり[1][2]、さらに分館を北埼玉郡羽生町(現羽生市)、忍町、熊谷町(現熊谷市)に設立した[2]。1896年(明治29年)から熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)の剣術教師(剣道名誉教授)として13年間指導を行った[1][2]。また、1908年(明治41年)から大日本武徳会埼玉県支部で名誉教授として[1][2]、1913年(大正2年)から陸軍戸山学校で[1]、1938年(昭和13年)から東京憲兵隊本部で剣道教師を務める[1]など、諸団体で剣道の指導を行った[1]。
1926年(大正15年)5月、大日本武徳会から剣道範士号を授与され[2]、2005年(平成17年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰された。
政界では、1890年(明治23年)、埼玉県会議員に当選し、1898年(明治31年)まで連続4期在任[1][2]。同年3月の第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第4区から出馬して初当選。以後、第7回から第10回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算5期在任した。この間、星野仙蔵と共に学校教育への武術の正課編入請願運動を行い、1911年(明治44年)旧制中学校での正課採用が実現した[5]。
1909年(明治42年)の日糖事件に連座したとされ、同年5月13日に衆議院議員を辞職した[6]。第一審では重禁固3ヶ月の有罪判決だったが、同年8月10日、東京控訴院第一部で無罪の判決を受けて確定した[7]。
国政選挙歴
[編集]- 1898年(明治31年)第5回衆議院議員総選挙 当選
- 1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙 当選
- 1903年(明治36年)第8回衆議院議員総選挙 当選
- 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙 当選
- 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙 当選
著書
[編集]- 『剣道指南』文武書院、1927年。
- 『皇国剣道史』田中誠光堂、1944年。
伝記
[編集]- 小沢丘『小沢愛次郎の遺稿と追憶』小沢丘、1975年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『剣道事典 技術と文化の歴史』341頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『埼玉人物事典』218頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第2版』299頁。
- ^ 宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』739頁、大日本雄弁会講談社編
- ^ 『剣道事典 技術と文化の歴史』211、341頁。
- ^ 『官報』第7763号、明治42年5月14日。
- ^ 雨宮昭一「日糖事件 - 汚職事件と検察権の拡大」『日本政治裁判史録 明治・後』(第一法規出版、1969年)497、512頁。
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』140頁。
参考文献
[編集]- 『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年。
- 宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』739頁、大日本雄弁会講談社編
- 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。
- 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056