西久保弘道
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西久保 弘道 | |
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生年月日 |
1863年6月30日 (文久3年5月15日) |
出生地 | 肥前国佐賀郡鍋島村 |
没年月日 | 1930年7月8日(67歳没) |
称号 |
正四位 勲一等瑞宝章 大日本武徳会剣道範士 全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰 |
第19代 福島県知事 | |
在任期間 | 1910年 - 1913年 |
第13代 北海道庁長官 | |
在任期間 | 1914年 - 1915年 |
第23代 警視総監 | |
在任期間 | 1915年 - 1916年 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1916年10月5日 - 1930年7月8日 |
第11代 東京市長 | |
在任期間 | 1926年 - 1927年 |
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和5年(1930年)7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。
福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸に生まれる。司法省法学校予科を経て[1]、東京帝国大学法科大学卒。
官職
[編集]内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。1916年10月5日に貴族院議員に勅選され[2]、後に東京市長を務める。卒去の同日付で勲一等瑞宝章を受章。
剣道
[編集]山岡鉄舟に私淑して無刀流剣道を学び、1919年(大正8年)から大日本武徳会副会長嘱託、武術専門学校校長に就任。人を殺すものではない、心身錬磨のための武道を主唱し、武術を「武道」へ名称変更した[3]。1929年(昭和4年)5月、大日本武徳会より剣道範士号を授かる[4]。
エピソード
[編集]「稽古は神聖犯す可からず。」の一節を残した[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1916年(大正5年)
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[12]
- 1930年(昭和5年)7月8日 - 勲一等瑞宝章[7]・帝都復興記念章[13]
親族
[編集]- 父 : 西久保紀林 - 佐賀藩藩士、内務官僚
- 弟 : 西久保豊一郎 - 陸軍少佐
- 甥 : 西久保豊成 - 陸軍少尉、内務官僚
- 子は無かった為、実妹である岸アイの三男良行を嗣子とした。良行の妻翠は安藤源五郎の孫[14]。
著作
[編集]- 『武道講話』 警察協会北海道支部 1915年
- 『西久保氏武道訓』良書刊行会 1916年(西久保による口述を岡本学が編さん)
評伝
[編集]- 牛山栄治『巨人西久保弘道』春風館 1956年
脚注
[編集]- ^ 日本大学大学史ニュース第15号(2018年9月30日発行)
- ^ 『官報』第1256号、大正5年10月6日。
- ^ 『西久保氏武道訓』
- ^ 『武道範士教士錬士名鑑』302頁、大日本武徳会本部雑誌部
- ^ “稽古は神聖犯す可から”. 佐賀県剣道連盟 2020年2月28日閲覧。
- ^ 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
- ^ a b 『官報』第1058号「叙任及辞令」1930年7月10日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 横山鉱太郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]