コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

野間清治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のま せいじ

野間 清治
野間 清治
生誕 (1878-12-17) 1878年12月17日
群馬県山田郡新宿村
死没 (1938-10-16) 1938年10月16日(59歳没)
東京市小石川区関口台町(自邸)
死因 急性狭心症
墓地 護国寺東京都文京区
記念碑 野間清治生誕地(桐生市立南小学校
野間清治顕彰碑(桐生市立図書館
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学文科大学臨時教員養成所
職業 教員実業家
著名な実績 大日本雄辯會及び講談社創業
配偶者 野間左衛(講談社第3代社長)
子供 野間恒(長男・講談社第2代社長)
野間好雄、文
テンプレートを表示

野間 清治(のま せいじ、1878年明治11年〉12月17日 - 1938年昭和13年〉10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した[1]

経歴

[編集]

人物

[編集]
野間清治の父と母

父の[野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母の文は森要蔵の長女である[2][3]。清治も剣道に励んだが、1912年明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。

息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。恒は1934年昭和9年)開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれている。

野間家の写真

ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。

没年となった1938年(昭和13年)公表の長者番付では、東京市で一位の納税額となる11万5000円を納めていた[4]

公共心旺盛で、社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観鏑木清方日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵している。

主な刊行雑誌

[編集]

著書

[編集]

編書

[編集]
  • 『少年少女教育講談全集』 大日本雄辯會講談社(1930年)
  • 『武道寶鑑』 大日本雄辯會講談社(1934年

関連文献

[編集]
  • 荒木武行『人物評伝 野間清治論』 全線社書房(1931年)
  • 関豊作『雑誌王野間清治伝』 新聞解放社(1931年)
  • 高木義賢編『野間清治言志録』 大日本雄辯會講談社(1939年)
  • 辻平一『人間野間清治』 講談社(1960年)
  • 笛木悌治『私の見た野間清治―講談社創始者・その人と語録』 富士見書房(1979年)
  • 堂本昭彦『中山博道有信館』 島津書房(1993年) ISBN 4882180480
  • 出川沙美雄『奇蹟の出版王―野間清治とヘンリー・ルース』 河出書房新社(2000年) ISBN 4309904084
  • 渡部昇一『仕事の達人の哲学―野間清治に学ぶ運命好転の法則』 致知出版社(2003年) ISBN 4884746678
  • 魚住昭『出版社と権力 講談社と野間家の一一〇年』(初版)講談社、2021年2月15日。ISBN 9784065129388NCID BC05509615全国書誌番号:23496349 

脚注

[編集]
  1. ^ 積悪の雑誌王 : 野間清治の半生 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年1月17日閲覧。
  2. ^ 魚住 2021, p. 39.
  3. ^ 原点 野間清治と創業物語〜講談社がベンチャー企業だったとき〜「 剣豪の孫息子だった野間清治」”. 講談社BOOK倶楽部. 2022年12月30日閲覧。
  4. ^ 東京の第一位は屑鉄屋さん『東京朝日新聞』(昭和15年7月20日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p482 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
(設立)
講談社社長
初代(1909年 - 1938年
次代
野間恒