山田春三
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山田 春三(やまだ しゅんぞう[1][2] / はるぞう[3]、1846年7月31日(弘化3年6月9日[1][4])- 1921年(大正10年)9月13日[1][2])は、明治から大正期の内務官僚・政治家。官選県知事、宮中顧問官、貴族院議員。旧姓、村岡。
経歴
[編集]長門国阿武郡、現在の山口県萩市[3][5]で、長州藩士・村岡忠治の二男として生まれる[4]。1874年(明治7年)11月、山田久允の養子となり[4]、1876年(明治9年)6月、家督を相続した[4]。
1875年(明治8年)山口県第十二大区学区取締に就任[6]。萩の乱の功により、1877年(明治10年)山口県十等属・警部となる[6]。以後、山口県警部長、岩手県警部長、岩手県権少書記官、山梨県・奈良県・愛知県・佐賀県・京都府の各書記官などを歴任[2]。
1898年(明治31年)4月、福島県知事に就任[6]。第2次山縣内閣の増税命令を実行しようとして県会と対立し、二度の県会解散を行った[6]。1900年(明治33年)10月、埼玉県知事に転じた[7]。1902年(明治35年)2月、静岡県知事となる[8]。1904年(明治37年)1月、広島県知事に就任し[9]、日露戦争の対応に尽力し[9]、1907年(明治40年)1月まで在任した[9]。
1906年(明治39年)12月15日、貴族院勅選議員に任じられ[10][11]、研究会に属し死去するまで在任した[2]。1912年(大正元年)9月4日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[12]。
親族
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『日本人名大辞典』1977頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』175頁。
- ^ a b 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』257頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第5版』や38-39頁。
- ^ 『防長人物百年史』220頁。
- ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』215頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』311頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』562頁。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』830頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『官報』第7041号、明治39年12月17日。
- ^ 『官報』第32号、大正元年9月5日。
- ^ 『官報』第5972号「叙任及辞令」1903年6月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 末弘錦江『防長人物百年史』山口県人会、1966年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。