小野田元熈
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小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5年2月11日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、幕末の館林藩士、明治から大正期の警察・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。旧姓・藤野、幼名・貞治。
経歴
[編集]館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。
明治4年11月(1871年末頃)、東京府取締組羅卒小頭となり、さらに司法省少警部となり1873年2月に退官。1874年1月、警視庁少警部として再度、警察官となる。1877年2月、内務省警視局三等大警部兼陸軍歩兵中尉として、別働第3旅団第1大隊副官として西南戦争に従軍した。
1879年2月から翌年8月まで川路利良大警視に随行し欧米の警察制度を視察。1881年1月、警視庁四等警視・第三課長兼任となり、以後、警視庁書記局次長、同会計局長、兼内務少書記官、警視庁書記局長、東京府小笠原島司、長野県書記官、兵庫県書記官などを経て、1893年3月に内務省警保局長に就任。1896年11月に辞職した。
1897年4月、茨城県知事に任命され、さらに山梨県知事、静岡県知事、宮城県知事、香川県知事を歴任し、1910年 6月に辞職。同年7月16日、貴族院勅選議員に任命され[1]、1919年6月13日まで在任[2]。1911年7月28日、錦鶏間祗候に任じられた[3]。
1911年4月から1915年 4月まで上毛モスリン社長を務めた。墓所は谷中霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正六位[4]
- 1893年(明治26年)4月11日 - 正五位[5]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従四位[6]
- 1902年(明治35年)4月30日 - 正四位[7]
- 1907年(明治40年)5月20日 - 従三位[8]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1893年(明治26年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[10]
- 1898年(明治31年)6月28日 - 勲三等瑞宝章[11]
- 1905年(明治38年)6月24日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[13]・明治三十七八年従軍記章[14]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[15]
著作・伝記
[編集]- 『小笠原島巡回略記』警視庁、1885年。
- 『泰西監獄問答録』警視庁、1889年[16]。
- 『北海道紀行』小野田元熈、1896年。
- 編著『官祭館林招魂社略記』小野田元熈、1917年。
- 伝記
- 小野田元一著『小野田元熈』小野田元熈五十年祭記念出版、私家版、1969年。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第8121号、明治43年7月18日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ 『官報』第8431号、明治44年7月29日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第5644号「叙任及辞令」1902年5月1日。
- ^ 『官報』第7165号「叙任及辞令」1907年5月21日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第3000号「叙任及辞令」1893年6月30日。
- ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 泰西監獄問答録. 国立国会図書館デジタルコレクション. doi:10.11501/795989 2018年8月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
外部リンク
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