佐々木家寿治
佐々木 家寿治 ささき かずじ | |
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生年月日 | 1886年12月7日 |
出生地 | 宮城県 |
没年月日 | 1954年3月2日(67歳没) |
出身校 |
宮城県古川高等学校 盛岡高等農林学校(現岩手大学) |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
正五位 勲四等瑞宝章 |
公選第2代 宮城県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年2月22日 - 1952年9月5日 |
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ[1]、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、宮城県知事(1期)。「百姓知事」と言われ県民の人気も高かった。
人物
[編集]宮城県出身[2]。宮城県古川高等学校、盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)で学ぶ[1][3][4][5][注 1]。
志田郡志田村(のち古川市、現大崎市)助役、同村長、同村会議員、宮城県会議員[1]、同議長、同参事会員、志田村、志田郡、宮城県各農会長となる[6]。
1930年、仙台市長選挙に立候補したが、市会(市議会)での得票数は4位に終わり、落選した[7]。1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から出馬して当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙の再選時は投票のための買収があり、虚偽の約束手形を手に入れてそれに合わせた証言が行われた偽証証憑偽造偽造証憑使用教唆事件で1937年11月4日、大審院は上告棄却し佐々木は懲役4か月の実刑判決が確定[8]。これにより正七位を失位[9]、勲四等及び大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された[10]。
1946年、岡崎栄松、金森誠之、佐々木更三らが立候補し、初の公選で行われた仙台市長選に再び立候補するが、落選した[11]。同年、宮城県志田郡を地盤とする元宮城県会(県議会)議長として、宮城地方党から第22回衆議院議員総選挙に立候補したが落選した[7]。
1949年、宮城県知事に就任。1951年には、当時資金難にあった県内の商工業を救済することを考え、宮城県から4割を出資して振興無尽(現仙台銀行)を設立した。しかし、1952年、任期途中で辞職した。
1954年3月2日、肺気腫のため死去、67歳。死没日をもって勲四等瑞宝章追贈、正五位に叙される[12]。墓所は、宮城県古川市(現在の大崎市)の養性寺にある。
このほか、古川農蚕具取締役社長、古川人造石工業、塩釜潜ヶ浦石材、仙台日東度量衡各監査役を務めた[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『宮城県史』29巻、115頁には「盛岡高農卒」と記載。
出典
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』267頁。
- ^ 明治~昭和, 新訂 政治家人名事典. “佐々木 家寿治とは”. コトバンク. 2021年9月27日閲覧。
- ^ 『古川市史』下巻、1078頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』156頁。
- ^ 『志田村誌』297頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』268頁。
- ^ a b 功刀俊洋「1946年の市長公選運動(3)」『行政社会論集』第9巻第1号、福島大学、1996年7月、1-71頁、CRID 1050001337527577472、hdl:10270/633、ISSN 0916-1384。
- ^ 大審院刑事判例集 第16巻下 一四五四-一五五一頁
- ^ 官報 1941年6月23日 七五四頁
- ^ 官報 1938年8月8日 二三七頁
- ^ 仙台市長選挙(1946年5月19日投票)、有権者 136,675名、投票数57,019票、岡崎栄松 24,226票、金森誠之 21,758票、佐々木更三 9,193票、佐々木家寿治 1,175票
- ^ 『官報』第8153号160頁 昭和29年3月10日号
参考文献
[編集]- 『志田村誌』志田村誌編纂委員会、1950年。
- 古川市史編さん委員会『古川市史』下巻、古川市役所、1972年。
- 宮城県編『宮城県史 29』(財)宮城県史刊行史会、1986年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 歴代知事編纂会編『新編 日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
公職 | ||
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先代 千葉三郎 |
宮城県知事 公選第2代:1949年 -1952年 |
次代 宮城音五郎 |