安藤狂四郎
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安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年(明治26年)3月8日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。
経歴
[編集]大分県出身。地主・安藤勝市の四男として生まれる。大分中学、第五高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入り、新潟県属として内務部学務課に配属された。
1919年4月、新潟県警部・警察部警務課長に就任。以後、内務省衛生局保険課勤務、鹿児島県出水郡長、栃木県内務部農商課長、同庶務課長兼地方課長、東京府内務部庶務課長、岩手県書記官・警察部長、内務書記官・警保局高等課長、東京府書記官・学務部長、静岡県書記官・内務部長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
1935年1月、茨城県知事に就任。三重県知事を経て、1937年11月、内務省土木局長に転じた。1939年1月、警保局長となり、同年9月まで在任。1941年1月、京都府知事となる。由良川改修事業を推進した。1943年7月に京都府知事を退任。1944年7月、最後の大政翼賛会事務総長に就任。1945年6月まで務め退官した。1946年10月から1951年9月まで公職追放となった。
その他、大丸顧問、八重洲駐車場取締役、東九州自動車社長などを務めた。墓所は多磨霊園。
親族
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。