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林弥三吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林 弥三吉
生誕 1876年4月8日
日本の旗 日本石川県
死没 (1948-08-31) 1948年8月31日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1897年 - 1932年
最終階級 陸軍中将
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林 弥三吉旧字体林 彌三吉、はやし やさきち、1876年明治9年)4月8日 - 1948年昭和23年)8月31日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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石川県出身。林三二の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業。

1904年(明治37年)6月、歩兵第18旅団となり日露戦争に出征し、さらに第3軍鴨緑江軍兵站参謀を歴任。1906年(明治39年)1月、陸軍省出仕(軍務局)となり、軍務局課員を経て、1909年(明治42年)1月、歩兵少佐に昇進。同年12月、ドイツ駐在となり、ドイツ大使館付武官補佐官、陸大教官を歴任し、1914年(大正3年)11月、歩兵中佐に進級。1915年大正4年)2月、参謀本部員に就任し、同時に1918年(大正7年)4月まで山縣有朋元帥副官を兼務した。

1917年(大正6年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任。1918年8月、浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に出征。1919年(大正8年)7月、歩兵第37連隊長に着任し、第14師団参謀長、軍務局軍事課長を歴任。1922年(大正11年)8月、陸軍少将に進級し支那公使館付武官となった。

1925年(大正14年)5月、歩兵第3旅団長に就任し、1927年(昭和2年)3月、陸軍中将に進み教育総監部付となる。同年7月、陸軍歩兵学校長に就任。その後、第4師団長、東京警備司令官を歴任し、1932年(昭和7年)2月に待命、翌月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

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位階

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勲章等

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親族

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著作

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  • 林彌三吉 述『楠公の敎訓』兵書出版社、昭和11
  • 林彌三吉 著『空軍獨立ノ提唱』林彌三吉、昭和11
  • 林彌三吉 著『文武權の限界と其の運用』兵書出版社、昭和11
  • 林彌三吉 著『楠公の戰術上及精神上の敎訓』兵書出版社、昭和12
  • 林彌三吉 著、國民新聞社 編『楠公を語る』文友堂、昭和13
  • 林彌三吉 著『大楠公』萬里閣、昭和15
  • 林彌三吉 著『大楠公詳傳』新興亞社、昭和16
    • 林彌三吉 著『大楠公詳傳 普及版』新興亞社、1942.11
  • 林彌三吉 述「楠公精神」『經濟倶樂部講演 昭和17年 第10輯』東洋經濟新報社出版部、1942.4
  • 林彌三吉 述『大聖人楠公 決戰と楠公精神の昂揚に就て』日本外交協會、1943.7
  • 林弥三吉 著『日本古名将と其の戦術』林弥三吉、1958
  • 林弥三吉 著『日本古名将とその戦術』学陽書房 自衛隊教養文庫、1960

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
  2. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
  3. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
  4. ^ 『官報』第1526号「叙任及辞令」1917年9月1日
  5. ^ 『官報』第3035号「叙任及辞令」1922年9月12日。
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。