田川亮三
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田川 亮三(たがわ りょうぞう、1919年〈大正8年〉3月8日 - 1995年〈平成7年〉9月18日)は、日本の官僚、政治家。三重県知事を務めた。神奈川県横須賀市出身。旧制神奈川県立横須賀中学(現:神奈川県立横須賀高等学校)、京都大学卒業。
来歴・人物
[編集]農林省(現:農林水産省)から三重県秘書課長、企業庁長、三重県副知事を歴任。
副知事退任後、民社党公認で三重1区から衆議院議員選挙に出馬する予定であったが、現職知事の田中覚が任期途中で辞職し同じ三重1区から自由民主党公認で出馬表明。急遽行われた後継の知事選に自由民主党が九鬼喜久男を対抗馬として公認したのに対し、野党側は二転三転しながらも田川を無所属候補として擁立し、民社党・日本社会党の支援を受けた。なお民社党は三重1区に社会党を離党した中井洽を擁立している。四日市公害問題(四日市ぜんそく)が争点となり、1972年(昭和47年)12月の三重県知事選挙で初当選。この間に、自由民主党から支援を受けるようになり、オール与党の三重県知事として、以下の政策を実施して、三重県政に数々の足跡を残した。
- 四日市公害(四日市ぜんそくによる健康被害)と四日市市周辺の環境対策の実施。
- 全国最初のリゾート法の適用地に指定されるように尽力した。
- 愛知県と三重県との間で紛争となっていた木曽岬干拓地問題を決着した。
- 世界祝祭博覧会を開催した。
三重県知事6期目の途中、1995年(平成7年)4月に健康上の理由により辞職した(後任知事は自民党出身で当時新進党衆議院議員の北川正恭)。同年9月18日に急性呼吸不全のため死去した。享年76。
参考文献
[編集]- 『伊勢年鑑』
公職 | ||
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先代 田中覚 |
三重県知事 公選第8 - 13代:1972年 - 1995年 |
次代 北川正恭 |