久保田貫一
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久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3年5月17日)- 1942年(昭和17年)6月13日)は、明治期の官僚。県知事、錦鶏間祗候。
経歴
[編集]1879年、外務省に入り書記生となりロンドンに在勤。以後、農商務省・参事院・内務省などの各書記官、兼内務大臣秘書官などを歴任。
1891年4月、埼玉県知事に就任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行った。このため民党から反発が起こり、同年11月、県会において知事不信任案が可決された。久保田は県会の解散を命じて選挙が行われたが、不信任案に賛同した議員のほとんどが再選され、同年12月に久保田は知事を非職となった[1]。
1897年4月、和歌山県知事として復帰し、1898年10月まで在任。1899年5月、鳥取県知事に就任。1900年1月、内務省監獄局長に転じた。同年7月、監獄局が司法省に移管され、引き続き監獄局長を務め、1906年1月に退任した。同年2月16日、錦鶏間祗候に任じられた[2]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
- 1897年(明治30年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[7]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日中綬章[9]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
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