松本鼎 (政治家)
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松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日)[1] - 1907年(明治40年)10月20日[2])は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。
経歴
[編集]周防国出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。
明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した[3]。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
1883年10月、和歌山県令に登用され、1886年7月、地方官官制改正に伴い同県知事となり、産業・教育の振興、災害復旧事業に尽力。1889年12月26日に知事を非職となる[3]。
1890年6月12日、元老院議官に就任し、同年10月20日、元老院が廃止され非職となる[3]。同年7月、第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第三区から出馬して当選。衆議院議員を一期務めた。1892年5月3日、貴族院勅選議員に任じられ[4]死去するまで在任。死去に当り、その功により男爵を叙爵した。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.651
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻では10月22日。
- ^ a b c 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』461-465頁。
- ^ 『官報』第2652号、明治25年5月4日。
- ^ 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
- ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、651頁。
参考文献
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 内閣「松本鼎特旨叙位ノ件」明治40年。アジア歴史資料センター レファレンスコード: A10110266600
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 松本(鼎)家初代 1907年 |
次代 松本春造 |