コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

服部教一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
服部教一

服部 教一(はっとり きょういち、1872年8月23日明治5年7月20日[1]) - 1956年昭和31年)6月21日[2])は、日本の衆議院議員立憲民政党)、参議院議員

経歴

[編集]

奈良県高市郡阪合村(現在の明日香村)に服部吉平の二男として生まれる。1899年(明治27年)、東京高等師範学校を卒業。1901年(明治34年)に和仏法律学校(現・法政大学)卒業[3]、同年高等文官試験に合格し、陸軍教授、さらに文部省属となった。1904年(明治37年)、留学を命じられ[4]、欧米諸国で教育制度、人口問題、移民問題、社会制度を研究した[5]1909年(明治42年)に帰国後[6]は、文部省視学官書記官を務めた。その後内務省に移り、鹿児島県内務部長、広島県内務部長、北海道庁内務部長を歴任した[5][7]

退官後は北海道拓殖鉄道社長に就任した[5]。また、北海道高等予備学校校長、日本殖民学校校長、札幌法律学校校長も務めた[5]

1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回衆議院議員総選挙でも再選された。

戦後の1947年(昭和22年)に第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選を果たしたが、翌年に公職追放となった[8]

著書

[編集]
  • 『日本の将来』(富貴堂書店、1928年)

脚注

[編集]
  1. ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、14頁。
  2. ^ 『新訂政治家人名事典』
  3. ^ 『法政大学校友名鑑』1941年、p.202。
  4. ^ 『官報』第6392号、明治37年10月19日。
  5. ^ a b c d 『衆議院要覧』
  6. ^ 『官報』第7678号、明治42年2月2日。
  7. ^ 『人事興信録』
  8. ^ 『官報』第6399号、昭和23年5月18日。

参考文献

[編集]
  • 『衆議院要覧(乙) 昭和五年四月』衆議院事務局、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。