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山里忠徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山里 忠徳(やまざと ただやす、1848年嘉永元年〉6月26日 - 1920年大正9年〉6月19日[1])は、日本の武士武術家流派東軍新刀流剣術宝蔵院流高田派槍術一心流薙刀術日置流弓術。特に剣術槍術で有名であった。

経歴

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幕臣の山里建之助の子として江戸で生まれる。生家は東五軒町(東京市牛込区東五軒町)[1]

1877年(明治10年)、巡査として西南戦争に従軍。戦後、警視庁撃剣世話掛に就任した。1888年(明治21年)6月時点の階級警部補で、本郷警察署勤務[2]

その後、宮内省学習院旧制第一高等学校などで剣術を指導した[1]

1918年(大正7年)、旧制第一高等学校の撃剣部(剣道部)で、宝蔵院流高田派槍術と一心流薙刀術を指導した。これにより、宝蔵院流高田派槍術と一心流薙刀術は失伝を免れ、現在まで残っている[1][3]

脚注

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  1. ^ a b c d 高橋侑一「没後七十周年追悼・山里忠徳先生小伝」『秘伝古流武術』vol.5、BABジャパン、1991年、108-111頁
  2. ^ 『警視庁武道九十年史』24頁、警視庁警務部教養課
  3. ^ 忠徳会(やりの会)について”. 2023年3月11日閲覧。

関連項目

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