コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

宝蔵院流高田派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宝蔵院流高田派
ほうぞういんりゅうたかだは
発生国 日本の旗 日本
発生年 江戸時代
主要技術 槍術
公式サイト 忠徳会(やりの会)一高撃剣部伝 宝蔵院流高田派槍術 同一心流薙刀術 伝承の会
宝蔵院流高田派槍術 ホームページ
伝承地 埼玉県、東京都、奈良県
テンプレートを表示

宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは)とは、高田吉次(高田又兵衛)の系統の宝蔵院流槍術

歴史

[編集]

高田吉次は伊賀の出身で、はじめ中村尚政(宝蔵院流開祖・胤栄の弟子。宝蔵院流中村派を興す)より宝蔵院流槍術を学び、後に胤栄にも学んだ。この他、五坪之政(五坪兵庫介)より五坪流槍術を、穴沢盛秀(穴沢主殿助)より穴沢流薙刀術を学んだほか、新陰流剣術も学び、宝蔵院流高田派を大成した。

大坂の陣では大坂方に属して戦い、戦後、浪人となり江戸で槍術を指南したという。1623年(元和9年)、吉次は小笠原忠真に召し抱えられ、小笠原家中で槍術を指南した。島原の乱原城攻城戦において、吉次は小笠原家の槍隊を率いて戦功を挙げ、加増された。

高田家は小笠原家が知行した小倉藩の槍術師範家となり、宝蔵院流高田派は小倉藩の槍術の主流となった。江戸時代後期には「小倉の槍術」の評判から多くの回国修行者が小倉を訪れた。そのほか、吉次の長男・吉深は伊賀に帰り、久居藩の槍術師範となり、次男・吉和は福岡藩の槍術師範となった。

現状

[編集]

現在は江戸に伝えられた系統のみが現存している。ただし、この系統も全伝は現存せず、十文字槍素槍に勝つ「槍合わせの形」の一部のみが伝えられ、十文字槍で刀に勝つ「太刀合」、同じく十文字槍で薙刀に勝つ「薙刀合」などは失伝している。

この系統は1918年(大正7年)、旧制第一高等学校の撃剣部(剣道部)で、山里忠徳がこの宝蔵院流高田派槍術(槍合わせの型五十本)と一心流薙刀術を指導したことにより、失伝を免れた。昭和20年まで部員が代々伝承してきたが終戦により途絶えた。昭和40年頃、山里忠徳より宝蔵院流高田派を学んだ石田和外(元最高裁判所長官)が五十本中三十五本を復元した。石田和外は宝蔵院流の発祥地の奈良に流儀を伝えることを希望し、1976年(昭和51年)、奈良県の剣道家・西川源内や鍵田忠兵衛に伝えたことにより実現した。西川源内が第19世宗家を継承し、1991年(平成3年)、鍵田忠兵衛が第20世宗家を継承した。

ただし、石田和外は宝蔵院流の形を伝えたのみであり、印可を受けていたわけではなく、宗家とは称していない。以後の宗家の称には何らの歴史的・文化的根拠は無い。

現在、東京都内において忠徳会(やりの会)が宝蔵院高田派槍術と一心流薙刀術を伝えている[1]。忠徳会は、石田の復元の折から指導により演練を続けてきた一高撃剣OBの山﨑卓が発足させたものである。

また、石田和外が奈良県に伝えた系統が活動している。

脚注

[編集]
  1. ^ 『極意相伝 第二巻 愛隆堂 平成6年4月1日より

外部リンク

[編集]