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山口高等学校 (旧制)

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山口高等学校(山高)
旧旧山高
創立 1886年(明治19年)
所在地 山口県吉敷郡山口町
(現・山口市亀山地区)
初代校長 河内信朝
廃止 1906年
(1905年、山口高商に転換)
後身校 山口大学経済学部
代表的寮歌 花なき山の』(鳳陽寮歌)
同窓会 鳳陽会
再興(旧制)山高
創立 1919年(大正8年)
所在地 山口県吉敷郡山口町
(現・山口市糸米地区)
初代校長 新保寅次
廃止 1950年
(1949年、山口大学に包括)
後身校 山口大学文理学部
人文学部理学部
(1978年に、分離改組・設置)
代表的寮歌 『柳桜をこきまぜて』
(鴻南に寄する歌)
同窓会 (鴻南会)
→(鴻文会)・(鴻理会

旧制山口高等学校(きゅうせいやまぐちこうとうがっこう)は、山口県吉敷郡山口町(現山口市)に設立された官立旧制高等学校

1886年明治19年)11月に、第一(東京)第三(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校(後に高等学校)として山口市亀山地区に設立されたものと、1919年大正8年)に山口市糸米地区に設立されたものがある。略称はともに「山高」(やまこう)であり、特に区別する場合は前者を「旧旧山高」、後者を「再興(旧制)山高」と称する。

概要

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旧旧山高

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  • 1886年明治19年)公布の中学校令に基づき、第一高等中学校(東京)、第三高等中学校(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校として(明治19年)11月山口高等中学校(後に高等学校)が設立。全国で7校設置された高等中学校の一つであり、1887年(明治20年)12月設立鹿児島高等中学造士館と並んでナンバースクールでない特例的存在であった(1894年(明治27年)「高等学校令」公布により従来の「高等中学校」を「高等学校」と改称)。藩校明倫館)からの流れをくむ学校であり、設立の背景には地元出身者・子弟を高等中学校から帝国大学へ進学させることにより官界・政界へ人材を送り影響力を保持しようとした藩閥勢力の意向があったとされる。
  • 修業年限3年の本科(高等科)および修業年限3年の予科(尋常科)を設置し、さらに山口・萩・豊浦・徳山・岩国の旧藩校を基礎とした5つの中学校(4年制)を「予備門五学校」とした。このような事情により学生のほとんどは地元の山口県出身者によって占められた。
  • 旧藩主毛利元徳)を会長とし地元有力者を中心とする防長教育会が経費を負担していたが、高校の入学者選抜制度が各校独自の選抜から全国共通選抜に変わり他府県出身者が増加したため運営を全面的に国へ移管した。
  • さらに1905年、実学教育の拡充を図っていた文部省により、旧旧山高は山口高等商業学校へ転換され、松本源太郎山口高等学校第4代校長は、そのまま山口高等商業学校初代校長に就任した。また、旧旧山高の校舎、亀山校地のほか、寄宿舎および寮歌「花なき山の」も山口高商に継承され、寄宿舎は山口高商時代に「鳳陽寮」と命名された。
  • 高商転換後の大学(旧制大学)昇格運動については山口高等商業学校を参照のこと。
  • 第七高等学校造士館 (旧制)とともに旧藩の肝いりで創立された国立学校である。

再興山高

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  • 大正期、改正高等学校令に基づき設立された官立高等学校の一つで、設立に際しては旧旧山高と同様、旧藩主である毛利家からの寄附が大きな役割を果たした。
  • 文科・理科よりなる修業年限3年の高等科を設置した。山口県出身の学生の占める率は高く、卒業生の進学先は東京京都九州帝大の順だった。
  • 学生帽の白線は3条である[1]
  • 第二次世界大戦後の学制改革にともない新制山口大学の前身校の一つとなり、文理学部の構成母体となった。
  • 後身校の山口大学文理学部が1978年に分離改組し、人文学部理学部に分かれた時、同窓会として「鴻文会」(こうぶんかい)と「鴻理会」(こうりかい)が結成される。
  • 再興山高の卒業生により同窓会として「鴻南会」(こうなんかい)が結成されているが、その名は寄宿舎である「鴻南寮」にちなむものである。

沿革

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前身諸校

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「旧旧山高」時代

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  • 1886年11月 - 第一高等中学校(東京)、第三高等中学校(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校として県立山口中学校を改組し官立山口高等中学校を設立。
  • 1893年11月 - 寄宿舎騒動。校長免職、退学114名(のち全員復学)。
  • 1894年9月 - 明治27年9月27日文部省告示第八号(山口高等中学校ヲ高等学校ニ改ム)により山口高等学校と改称。
    • 従前の本科を基礎に専門学部を置かず大学予科のみを設置。
  • 1901年 - 予科(尋常中等科)生を山口県立山口中学校に編入。
  • 1905年5月 - 明治38年2月25日勅令第40号(山口高等学校ヲ山口高等商業学校ト改称スルノ件)により、高等商業学校に転換。
  • 1906年 - 山口高等学校廃校。

「再興山高」時代

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  • 1919年4月 - 大正8年4月16日文部省令第13号(新潟、松本、山口、松山各高等学校設置授業開始)により、 山口高等学校設立。
  • 1934年10月 - 11月:教授人事を発端とする紛争。校長辞任、無期停学12名。
  • 1936年10月29日 - 高校本館(建坪約600坪)が不審火により全焼[3]
  • 1940年 - 全国高等学校野球大会で優勝。
  • 1948年12月 - 1949年1月:大学法反対のスト。放校7名、諭旨退学3名。
  • 1949年5月 - 新制山口大学発足により包括される。
  • 1950年3月 - 廃校。

歴代校長

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山口高等中学校

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(旧旧)山口高等学校

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(心得)土井助三郎(1898年2月4日 - 2月15日)

(再興)山口高等学校

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  • 新保寅次(1919年 - 1929年)
  • 岩田博蔵(1929年 - 1935年)
  • 中山文雄(1935年 - 1938年)
  • 安斎宏索(1938年 - 1940年)
  • 藤本万治(1940年 - 1943年4月1日[4]):東京第一師範学校へ転任
  • 山本与吉(1943年4月1日[4] - 1945年)
  • 長崎太郎(1945年 - 1949年)
  • 松山基範(1949年)
  • 山尾政治(1949年 - 1950年)

校地の変遷と継承

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  • 旧旧山高の校地は、1861年文久元年)以来山口講堂・山口明倫館が所在していた亀山東麓(現山口市亀山地区)の亀山校地を継承、山口高商への転換に当たり同校の校地として継承された(亀山校地の現状については山口高等商業学校#校地の変遷と継承を参照のこと)。
  • 再興山高の校地は山口県吉敷郡山口町の鴻ノ峰南麓に設置され「鴻南」と命名(糸米校地)、1929年には市制が施行され住所表示が山口市に変更された。戦災に遭うこともなく新制山口大学文理学部の校地として継承されたが、1954年新制山口高校と校地を交換、市内後河原地区に移転した(その後吉田地区に統合移転)。現在も新制山高の校地として使用されている旧校地には、旧制時代の校門や講堂(国の登録有形文化財に登録)などが保存され、いくつかのモニュメントが建立されている。

著名な出身者(五十音)

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旧旧山高時代

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文化・学術

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政官界

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経済界

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再興山高時代

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スポーツ

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文化・学術

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政官界

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経済界

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教員

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脚注

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  1. ^ 熊谷晃 『旧制高校の校章と旗』 えにし書房、2016年、13頁
  2. ^ 河西喜治『坊っちゃんとシュタイナー 隈本有尚とその時代 』(ぱる出版、2000年、ISBN 4-89386-806-3)88 - 90頁。
  3. ^ 山口高校本館が怪火で全焼『山陽新報』昭和11年10月30日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p716 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ a b 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。
  5. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 山口高等商業学校編『山口高等商業学校一覧 〔第24年度〕(昭和3至4年)』昭和3

関連書籍

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尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照

関連項目

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外部リンク

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