横田郷助
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橫田鄕助 | |
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生年月日 | 1880年9月23日 |
出生地 | 日本 山口県吉敷郡山口町(現・山口市) |
没年月日 | 1931年10月11日(51歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
前職 |
樺太民政署事務官 徳島県事務官 群馬県事務官 同県内務部長 |
在任期間 | 1918年 - 1920年 |
在任期間 | 1923年 - 1931年 |
横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体:橫田鄕助、1880年(明治13年)9月23日[1] - 1931年(昭和6年)10月11日[2])は、内務官僚、南洋庁長官。
経歴
[編集]山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)[1]に横田稲稔の長男として生まれる[3]。旧制山口高等学校卒業を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、神奈川県属に任じられた[1]。同年11月に高等文官試験に合格し、翌年から樺太民政署事務官を務めた[1]。1909年(明治41年)に徳島県事務官となり、群馬県事務官を経て、1912年(大正元年)に群馬県内務部長に就任した[1]。1915年(大正4年)からは三重県内務部長となり[1]、1918年(大正7年)には賞勲局書記官に転じた[4]。
1923年(大正12年)4月、南洋庁長官に任命され[1]、死去するまで在任した。
親族
[編集]- 相浦多三郎 - 妻の父。陸軍少将。
献名
[編集]横田郷助の名は金平亮三により1932年に新種として記載された現ミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)産のマメ科ナムナム属の中高木であるオホバハツバキ(この和名も金平により新たに付けられたもの; 学名: Cynometra yokotae)の種小名として献名されている[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 東京朝日通信社編『御成婚紀念復興之魁 一九二四年に於ける大日本人物史』東京朝日通信社、1924年。