塩谷一夫
塩谷 一夫 しおのや かずお | |
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生年月日 | 1920年1月2日 |
出生地 | 静岡県磐田郡袋井町(現・袋井市) |
没年月日 | 1989年12月28日(69歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
所属政党 | 自由民主党(三木派→無派閥→安倍派) |
称号 |
正四位 勲二等 |
子女 | 長男・塩谷立(衆議院議員、元文部科学大臣) |
選挙区 | 旧静岡3区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1967年1月29日 - 1983年11月28日 1986年7月6日 - 1989年12月28日 |
塩谷 一夫[1](しおのや かずお、1920年(大正9年)1月2日[2] - 1989年(平成元年)12月28日)は、日本の政治家、元自由民主党所属衆議院議員。
来歴
[編集]静岡県磐田郡袋井町(現・袋井市)出身。袋井町長、中遠鉄道社長、袋井合同運送取締役を務めた塩谷桑平と、きく(古田庄太郎二女)の七男[3]。1941年に早稲田大学政治経済学部卒業。
1946年、地方建設研究所長[2][4]。1948年、静岡県教育委員会委員[2][4]。1951年、同県社会教育協会事務局長、同県総務部秘書課長となり1955年、県民会館長を兼務する[2][4]。1957年、同県企画調整部秘書課長[2][4]。
1967年、静岡県教育委員会企画調整部長を経て、第31回衆議院議員総選挙に中選挙区時代の旧静岡3区から立候補し初当選(通算7回当選)[注釈 1]。ロッキード事件判決で自民党に逆風が吹いた1983年の第37回衆議院議員総選挙で落選したが、1986年の第38回衆議院議員総選挙で復帰した。
当初は党内の派閥は三木派だったが、四十日抗争の際に離脱し無派閥となり、その後安倍(晋太郎)派に加入する。
自民党が1987年度予算の委員会採決を強行採決した直後から、売上税撤回を求める署名運動の代表世話人に。晩年の1989年8月の自民党総裁選では亀井静香・平沼赳夫の要請で石原慎太郎(後の東京都知事)の推薦人名簿に名を連ねた。
1989年12月28日、死去。69歳没。死没日付をもって正四位勲二等に叙された。追悼演説は翌1990年3月27日の衆議院本会議で、松前仰により行われた[5]。
衆議院外務委員長・地方行政委員長を歴任したが、閣僚になることは1度もなかった。死去後の1990年第39回衆議院議員総選挙では塩谷立が地盤を継承し当選した。
人物
[編集]第二次世界大戦の際には中国戦線で戦闘に参加し、九死に一生を得た。その際、敵である中国人の子供に助けられたが、その子の名前の読みである「りゅう」を、後年生まれた長男の名にした。この長男が塩谷立である[6]。
党内きってのハト派として知られる[1]。朝鮮民主主義人民共和国にパイプを持つ数少ない自民党議員である[1]。
性格は控えめである[1]。宗教は仏教[2][4]。趣味は読書、剣道[2][4]。住所は静岡市水落町[2][4]。剣道五段。
家族
[編集]- 塩谷家
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 『国会画報 25(9)』22頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本人事録 東日本編4版』し604頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月28日閲覧。
- ^ 『大衆人事録 第13版中部篇』静岡27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『大衆人事録 第20版 東日本篇』し290頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月31日閲覧。
- ^ 第118回 衆議院 本会議 第8号 平成2年3月27日 - 国会会議録検索システム
- ^ 終戦記念日によせて(「塩谷立の21世紀雑談」より)
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版中部篇』帝国秘密探偵社、1940年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第20版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1958年。
- 中央探偵社出版部編『日本人事録 東日本編4版』中央探偵社、1960年。
- 『国会画報 25(9)』麹町出版、1983年。
議会 | ||
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先代 松野幸泰 |
衆議院地方行政委員長 1979年 - 1980年 |
次代 左藤恵 |
先代 永田亮一 |
衆議院外務委員長 1978年 - 1979年 |
次代 中尾栄一 |