井奥貞雄
井奥 貞雄(いおく さだお、1939年1月5日 - )は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員(3期)。
来歴・人物
[編集]兵庫県姫路市出身。1957年兵庫県立飾磨工業高等学校卒業後、マッチ製造業の八家化学工業に入社。1965年にヤカ東京工場が設立されると工場長となり、1968年に取締役に就任すると松戸青年会議所の活動に加わる。1977年にヤカ常務に就任すると共に松戸青年会議所理事長。1979年には麻生太郎の後任として日本青年会議所会頭となり、オーナー経営者や二世の多いJCにあって初の高卒・サラリーマン重役出身の会頭として話題を呼んだ。
1983年にヤカ社長となるとともに第13回参議院議員通常選挙に自民党公認(名簿29位)で比例区から出馬、第14回参議院議員通常選挙でも出馬する(名簿24位)がどちらも落選に終わる(1990年7月に繰り上げ当選を辞退)。1990年の衆院選で旧千葉4区から出馬してようやく初当選を果たし(当選同期に岡田克也・佐田玄一郎・亀井久興・中谷元・森英介・福田康夫・石原伸晃・河村建夫・小林興起・塩谷立・細田博之・小坂憲次・山本拓・赤城徳彦・村田吉隆・簗瀬進・山本有二など)、経世会(竹下派)に所属した。1992年の経世会の分裂では羽田孜・小沢一郎らと改革フォーラム21旗揚げに参加、翌年には自民党を離党して新生党に加わり、同党公認で第40回衆議院議員総選挙に再選されると羽田内閣で厚生政務次官を務めた。
1994年の新進党結党に参加するものの、1996年に新進党を離党し自民党に復党。第41回衆議院議員総選挙では自身の古巣・経世会を前身とする平成研新人渡辺博道とコスタリカ方式を結び比例単独で再選。直後の第2次橋本内閣で国土庁政務次官を務めた。1998年山崎拓を領袖とする近未来政治研究会の旗揚げに参加。2000年第42回衆議院議員総選挙で千葉6区から出馬したが、民主党現職生方幸夫に敗れ比例復活出来ず落選。2003年、県議選に出た息子の公選法違反(運動員買収)で逮捕・起訴され、執行猶予付き有罪判決を受け公民権を停止された。2014年、旭日中綬章受章。
脚注
[編集]議会 | ||
---|---|---|
先代 中馬弘毅 |
衆議院外務委員長 1999年 - 2000年 |
次代 中野寛成 |