安倍基雄
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安倍 基雄(あべ もとお、1931年3月31日 - 2004年1月23日)は、日本の大蔵官僚、政治家。文部政務次官、衆議院議員(通算4期)を務めた。正四位旭日重光章。父は内務大臣を務めた安倍源基。
安倍 基雄 あべ もとお | |
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生年月日 | 1931年3月31日 |
出生地 | 東京都 |
没年月日 | 2004年1月23日(72歳没) |
出身校 |
東京大学法学部法律学科卒業 ペンシルベニア大学大学院修了 |
前職 | 国家公務員(大蔵省) |
所属政党 |
(民社党→) (新進党→) (自由党→) 保守党 |
称号 | Ph.D.(経済学博士号、ペンシルベニア大学大学院) |
親族 | 父・安倍源基(元内務大臣) |
選挙区 |
(旧静岡3区→) 比例東海ブロック |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1983年12月18日 - 1990年1月24日 1993年7月18日 - 2000年6月2日 |
経歴
[編集]- 1931年(昭和6年)東京生まれ。永田町小学校(現麹町小学校)、旧制成蹊高等学校を経て
- 1953年(昭和28年)東京大学法学部法律学科卒業[1]。大蔵省に入省。(昭和28年旧制組入省) 28年旧制入省組同期には、吉野良彦、大場智満、津島雄二、近藤鉄雄らがいた。
- 1959年(昭和34年)、フルブライト留学生としてペンシルベニア大学大学院に留学、計量経済学を専攻。
- 1961年(昭和36年)、ペンシルベニア大学大学院でPh.D.(経済学博士号)を取得。
- 1968年(昭和43年)8月、国際金融局企画課長補佐。
- 1969年(昭和44年)6月、外務省在シドニー総領事館領事兼在オーストラリア大使館一等書記官。
- 1973年(昭和48年)8月、東海財務局総務部長。
- 1974年(昭和49年)7月、理財局国有財産第二課長。
- 1975年(昭和50年)7月、理財局国有財産第一課長。
- 1976年(昭和51年)6月18日、門司税関長[2]。
- 1977年(昭和52年)6月17日、中国財務局長兼財務研修所中国支所長[2]。
- 1979年(昭和54年)7月10日、大臣官房審議官(大臣官房担当)[2]。
- 1983年(昭和58年)6月、第13回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から民社党公認で出馬、落選。
- 1983年(昭和58年)12月、第37回衆議院議員総選挙に旧静岡3区から民社党公認で出馬、初当選。
- 1983年(昭和58年)12月28日、衆議院災害対策特別委員会所属。
- 1986年(昭和61年)7月、第37回衆議院議員総選挙で当選。
- 1990年(平成2年)2月、第39回衆議院議員総選挙で落選。
- 1993年(平成5年)7月、第40回衆議院議員総選挙で返り咲き。3選。
- 1993年(平成5年)8月12日、細川内閣で文部政務次官を務める。
- 民社党副委員長を経て、同党解党に伴い新進党結成に参加。
- 新進党総務会長代理
- 1996年(平成8年)10月、第41回衆議院議員総選挙で比例東海ブロックに新進党公認で比例単独(名簿5位)出馬、4選。
- 新進党解党に伴い自由党結成に参加。
- 自由党代議士会会長
- 衆議院「国会等の移転に関する特別委員会」委員長。
- 衆議院「消費者問題等に関する特別委員会」委員長。
- 2000年(平成12年)4月、自由党の連立離脱に反発し、保守党結成に参加。
- 2000年(平成12年)6月、第42回衆議院議員総選挙で比例東海ブロックに保守党公認で比例単独(名簿1位)出馬、落選。政界引退。
家族
[編集]著書
[編集]- 『最後の内務大臣、安倍源基の半生』(サンケイ出版)
- 『漢字随筆』(ダイナミック・セラーズ)
- 『ある政治家の独白』(プレジデント社)
- 『道徳価値の発生とその進化』(ストーク[要曖昧さ回避])
- 『この日本が危ない—失った10年』(創樹社)
- 『思わず漢字が好きになる「28のとっておきの話」』(プレジデント社)
- 『悔ありて悔なし』(プレジデント社)
- 『安倍論文に注目せよ!—安倍基雄論文集』(行研出版局)
- 『歴史の流れの中に』(原書房)