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片山内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
片山内閣
国務大臣任命式後の記念撮影
(1947年6月1日)
内閣総理大臣 第46代 片山哲
成立年月日 1947年昭和22年)5月24日
終了年月日 1948年(昭和23年)3月10日
与党・支持基盤 日本社会党民主党国民協同党、(緑風会[注釈 1]
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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片山内閣(かたやまないかく)は、衆議院議員日本社会党委員長片山哲が第46代内閣総理大臣に任命され、1947年昭和22年)5月24日から1948年(昭和23年)3月10日まで続いた日本の内閣

内閣の顔ぶれ・人事

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国務大臣

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一人内閣

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1947年(昭和22年)5月24日任命[1]。在職日数9日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 46 片山哲 衆議院
日本社会党
初入閣
日本社会党委員長
外務大臣 66 臨時代理
(内閣総理大臣兼任)
日本社会党委員長
内務大臣 -
大蔵大臣 -
司法大臣 -
文部大臣 -
厚生大臣 -
農林大臣 -
商工大臣 -
運輸大臣 -
逓信大臣 -
国務大臣
経済安定本部総務長官
- (欠員)
国務大臣
物価庁長官
- 1947年5月27日まで
- 片山哲 衆議院
日本社会党
事務取扱
(内閣総理大臣兼任)
1947年5月27日兼
日本社会党委員長
国務大臣
復員庁総裁
- (欠員)
国務大臣
行政調査部総裁
-
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

国務大臣任命時

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1947年(昭和22年)6月1日任命[2]。在職日数284日(通算292日)。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 46 片山哲 衆議院
日本社会党
日本社会党委員長
外務大臣 67 芦田均 衆議院
民主党
内閣総理大臣臨時代理
副総理
民主党総裁
内務大臣 67 木村小左衛門 衆議院
民主党
1947年12月31日
(内務省廃止) 1947年12月31日付
大蔵大臣 51 矢野庄太郎 衆議院
民主党
初入閣
1947年6月25日[注釈 2]
52 栗栖赳夫 参議院
無所属
緑風会
初入閣
1947年6月25日任
司法大臣 48 鈴木義男 衆議院
日本社会党
初入閣
1948年2月15日
(司法省廃止) 1948年2月15日付
法務総裁 (法務庁未設置) 1948年2月15日設置
1 鈴木義男 衆議院
日本社会党
転任
1948年2月15日任
文部大臣 63 森戸辰男 衆議院
日本社会党
初入閣
厚生大臣 15 一松定吉[3] 衆議院
民主党
農林大臣 7 平野力三 衆議院
日本社会党
初入閣
1947年11月4日
- 片山哲 衆議院
日本社会党
臨時代理
(内閣総理大臣兼任)
1947年11月4日兼
1947年12月13日免兼
日本社会党委員長
8 波多野鼎 衆議院
日本社会党
初入閣
1947年12月13日任
商工大臣 29 水谷長三郎 衆議院
日本社会党
初入閣
運輸大臣 7 苫米地義三 衆議院
民主党
初入閣
1947年12月4日
8 北村德太郎 衆議院
民主党
初入閣
1947年12月4日任
逓信大臣 2 三木武夫 衆議院
国民協同党
初入閣
(国民協同党書記長→)
国民協同党委員長
労働大臣 (労働省未設置) 1947年9月1日設置
1 米窪滿亮 衆議院
日本社会党
転任[注釈 3]
1947年9月1日任
国務大臣
経済安定本部総務長官
4 和田博雄 参議院
無所属
(緑風会)
物価庁長官兼任
国務大臣
物価庁長官
4 和田博雄 参議院
無所属
(緑風会)
経済安定本部総務長官兼任
国務大臣
復員庁総裁
2 笹森順造 衆議院
国民協同党
初入閣
1947年10月15日免
(復員庁廃止) 1947年10月15日付
国務大臣
行政調査部総裁
2 齋藤隆夫 衆議院
民主党
国務大臣
建設院総裁
(建設院未設置) 1948年1月1日設置
1 木村小左衛門 衆議院
民主党
転任[注釈 4]
1948年1月1日任
国務大臣
地方財政委員会委員長
(地方財政委員会未設置) 1948年1月7日設置
1 竹田儀一 衆議院
民主党
転任[注釈 5]
1948年1月7日任
国務大臣
賠償庁長官
(賠償庁未設置) 1948年2月1日設置
1 笹森順造 衆議院
国民協同党
転任[注釈 6]
1948年2月1日任
国務大臣 - 西尾末廣 衆議院
日本社会党
内閣官房長官兼任 初入閣
国務大臣
無任所
- 林平馬 衆議院
民主党
初入閣
1947年11月25日まで
国務大臣
(無任所)
- 米窪滿亮 衆議院
日本社会党
労働省設置準備委員会会長[注釈 7] 初入閣
1947年9月1日まで[注釈 3]
国務大臣
(無任所)
- 竹田儀一 衆議院
民主党
初入閣
1947年12月4日から
1948年1月7日まで[注釈 5]
国務大臣
(無任所)
- 笹森順造 衆議院
国民協同党
転任
1947年10月15日から
1948年2月1日まで
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣官房長官・法制局長官等

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1947年(昭和22年)6月1日任命[2]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣官房長官 2 西尾末廣 衆議院
日本社会党
国務大臣兼任
法制局長官 48 佐藤達夫 法制局 1947年6月14日
1948年2月15日免
(法制局廃止) 1948年2月15日付
内閣官房次長 - 滝川末一 日本社会党 1947年6月10日
- 曾禰益 外務省 1947年6月17日[注釈 8]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

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  • 1947年(昭和22年)6月18日任命。
職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 松本瀧藏 衆議院国民協同党
内務政務次官 (欠員) 1947年6月24日まで
長野長廣 衆議院/民主党 1947年6月24日任
1947年12月31日免
大蔵政務次官 小坂善太郎 衆議院/民主党
司法政務次官 佐竹晴記 衆議院/日本社会党 1948年1月20日免
榊原千代 衆議院/日本社会党 1948年1月21日任
1948年2月14日免
(司法省廃止) 1948年2月14日付
法務政務次官 (法務庁未設置) 1948年2月15日設置
榊原千代 1948年2月15日任
文部政務次官 永江一夫 衆議院/日本社会党
厚生政務次官 金光義邦 衆議院/民主党
農林政務次官 井上良二 衆議院/日本社会党
商工政務次官 富吉榮二 衆議院/日本社会党
運輸政務次官 田中源三郎 衆議院/民主党
逓信政務次官 椎熊三郎 衆議院/民主党
労働政務次官 (労働省未設置) 1947年9月1日設置
土井直作 衆議院/日本社会党 1947年9月1日任

首班指名選挙

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勢力早見表

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※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

名称 勢力 国務大臣 政務次官 その他
しやかい社会党 190 7 5 衆議院議長内閣官房長官、官房次長
みんしゆ民主党 152 8 5
こくみんきようとう国民協同党 39 2 1
りよくふうかい緑風会 94 1 0 参議院議長
国務大臣のべ2
- 475 18 11 国務大臣のべ19

内閣の動き

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日本国憲法下で国会の指名を受け組閣を行った最初の内閣である。第23回衆議院議員総選挙の結果、比較第1党となった日本社会党を中心に、民主党国民協同党からも閣僚を得て連立内閣とした。無産政党の議員が首相を務める内閣としては初のものである。

しかし、片山は本来、吉田茂率いる自由党を含めた(日本共産党を除く)「挙国一致内閣」(大連立内閣構想)を目指していたが、自由党が入閣に難色を示したため組閣は難航する。徹底した反共主義で鳴らす吉田や自由党幹事長の大野伴睦は党首会談の席上で「今日の閣議の機密を明日にはモスクワに漏らす分子(容共社会党左派)がいる社会党政権には参加できない」「どうしても入閣して欲しいなら(社会党)左派を切って欲しい」と要求した。やむを得ず1947年(昭和22年)5月24日に片山単独で親任式を受け、片山が閣僚ポストのほとんど[注釈 11]の臨時代理となる一人内閣としての発足となった。

吉田は表向き「容共」の社会党左派のいる社会党政権には入らないと主張していたが、実際は4党連立による不安定な政権運営を見越し、共倒れを恐れ連立に加わらなかったとされる。吉田の予見は翌年になって現実化する。結局自由党からは閣僚を得られず、3党を中心に1947年(昭和22年)6月1日に閣僚人事が決まり、片山内閣が本格的に発足した。閣僚の割り振りは、社会党7名、民主党7名、国民協同党2名、緑風会1名といった各党のバランスを重視した「党派均衡内閣」ではあったが、外相、蔵相といった主要閣僚に社会党議員を充てることができず人材不足を露呈した上に、社会党左派からの入閣はなく、不安定な政局を予感させた。

裁判官任命諮問委員会における諮問を経て、1947年8月4日に三淵忠彦最高裁判所長官を指名し、14人の最高裁判所裁判官を任命した。

神奈川税務署員殉職事件を受けて三国人による密造酒醸造・脱税事件は政府の経済緊急対策の成否にかかる重大問題であるとして省庁間の連携を強めさせた[6]

片山内閣時には、公務員の「公僕」化を目指す国家公務員法の制定、内務省を解体・廃止し、新たに国家地方警察と、全国に約1600の自治体警察を設置する警察制度の改革[注釈 12]労働省の設置、失業保険の創設、封建家族制度を廃止を目標とした改正民法の制定、刑法改正、臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)等が実現した。中でも炭坑国家管理法は、社会主義政策を具現化した社会党の重要法案であり、片山首相と水谷商相がもっともその成立に意欲的であった。しかし、産業界から猛反発を受け、野党自由党ばかりか与党民主党からも難色を示されたため、法案は成立したものの、内容は「国家管理」とは程遠い骨抜きとなり政権の脆弱さを露呈した(詳細は臨時石炭鉱業管理法の項を参照)。

更には、炭坑国家管理法案採決の際の民主党幣原喜重郎派の造反と離党、社会党右派内での勢力争い(西尾末広官房長官と平野力三農相との対立)、衆議院予算委員会において党内調整が終わらないうちに社会党左派の造反による補正予算の否決など内部対立が表面化し、遂に政権運営に行き詰まり片山は1948年(昭和23年)2月10日退陣を表明した[7]

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 会派として与党入りしていない。
  2. ^ 脳溢血による病気療養のため。
  3. ^ a b 国務大臣(無任所)より補職。
  4. ^ 内務相より転任。
  5. ^ a b 地方財政委員会設置に伴い、国務大臣(無任所)より補職。
  6. ^ 笹森は賠償庁に伴い、国務大臣(無任所)より補職。
  7. ^ 1947年6月10日より補職。
  8. ^ 1947年(昭和22年)6月17日より政務・事務の次長二人制を導入。
  9. ^ 吉田には山口好一、齋藤には本人が投票。白票は片山、只野直三郎、残り2票は無記名。
  10. ^ 幣原には服部教一、尾崎には大山安が投票。
  11. ^ 経済安定本部総務長官、復員庁総裁、行政調査部総裁については片山自身への兼務の発令なく6月1日まで空席。物価庁長官のみ3日遅れて5月27日に自らに事務取扱の発令をしている。閣僚ポストではないが、内閣官房長官、法制局長官、内閣官房次長、全ての政務次官も同様に空席。
  12. ^ 日本共産党の台頭を恐れた片山内閣は、当初は内務省とG2が提案していた「公安庁」の設置を検討しており、警察機構の解体には消極的であったが、GSチャールズ・L・ケーディスの強い意向により行われた。ケーディスは国家地方警察の設置にも反対していたが、G2のチャールズ・ウィロビーの巻き返しにより、国家地方警察本部が設置された。

出典

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  1. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和22年5月24日
  2. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和22年6月1日
  3. ^ 第1次吉田内閣の逓信大臣から転任(6月1日まで一人内閣のため、厳密な転任とは異なる)。
  4. ^ 第1回国会衆議院会議録第4号『官報』号外昭和22年5月24日付
  5. ^ 第1回国会参議院会議録第4号『官報』号外昭和22年5月24日付
  6. ^ 税務職員の殉難小史
  7. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、364頁。ISBN 4-00-022512-X 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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