上埜安太郎
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上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応元年12月11日) - 1939年(昭和14年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会[1]→政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長[1]。富山市長[1]。族籍は富山県平民[2]。
経歴
[編集]越中国礪波郡西五位村(現在の富山県高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男[2][3]。家は農を業とし、蚕業を営んでいた[4]。自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年(明治20年)、初めて富山県会議員に当選[3][5]、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した[6][7]。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった[3]。
1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、10回の当選を重ねた。その間、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで高岡市長を務め、1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで田中義一内閣の鉄道政務次官を務めた。
議員引退後は、1930年(昭和5年)から1933年(昭和8年)まで富山市長を務めた。その他、富山新報の経営にあたった。
人物
[編集]上埜は富山県下屈指の大地主だった[4]。家業に於いても精を励まし、勤勉怠らず、各種の公職に就くに及んでは誠実に事に当たり、特に勧業、教育、土木の事に意を注ぎ、地方の治績上に効果を挙げた[4]。
住所は富山県西礪波郡西五位村[2]、東京市外碑衾町碑文谷[3]。
家族・親族
[編集]- 上埜家
- 父・次平[2][3]
- 弟・藤作(1868年 - ?、富山、石野昌作方へ入家)[2]
- 妹・しう(1879年 - ?、富山、渋谷六兵衛の妻)[2][3]
- 妻・つた(1867年 - ?、富山、伊藤仁兵衛の妹)[2][3]
- 男・安次(1883年 - ?、加越鉄道、黒部鉄道、箱根登山鉄道各監査役)[5]
- 二男・俊郎(1886年 - ?、分家)[2][3]
- 庶子・良子(1904年 - ?、生母、福井、岸本房、富山、林要雲の妻)[5]
- 孫[2]
脚注
[編集]- ^ a b c 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』241頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第7版』う42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第9版』ウ30-31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月30日閲覧。
- ^ a b c 『大正人名辞典』623頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第10版 上』ウ37-38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
- ^ 『新選代議士列伝』217頁。
- ^ 『日本ダイレクトリー』特20頁。
参考文献
[編集]- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 清田伊平『日本ダイレクトリー』甲寅通信社編集部、1915年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 『衆議院要覧(乙)』衆議院事務局、1928年。
- 『富山県知名人物大鑑』富山県知名人物大鑑発行所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
公職 | ||
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先代 鳥山敬二郎 |
高岡市長 第9代:1922年-1926年 |
次代 南慎一郎 |
先代 井上政寛 |
富山市長 第12代:1930年-1933年 |
次代 金山米次郎 |