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上埜安太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上埜安太郎

上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日慶応元年12月11日) - 1939年昭和14年)4月4日)は、日本の政治家衆議院議員立憲政友会[1]政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長[1]富山市長[1]。族籍は富山県平民[2]

経歴

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越中国礪波郡西五位村(現在の富山県高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男[2][3]。家は農を業とし、蚕業を営んでいた[4]自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年明治20年)、初めて富山県会議員に当選[3][5]、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した[6][7]。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった[3]

1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、10回の当選を重ねた。その間、1922年大正11年)から1926年(大正15年)まで高岡市長を務め、1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで田中義一内閣鉄道政務次官を務めた。

議員引退後は、1930年(昭和5年)から1933年(昭和8年)まで富山市長を務めた。その他、富山新報の経営にあたった。

人物

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上埜は富山県下屈指の大地主だった[4]。家業に於いても精を励まし、勤勉怠らず、各種の公職に就くに及んでは誠実に事に当たり、特に勧業、教育、土木の事に意を注ぎ、地方の治績上に効果を挙げた[4]

住所は富山県西礪波郡西五位村[2]、東京市外碑衾町碑文谷[3]

家族・親族

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上埜家

脚注

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  1. ^ a b c 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』241頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第7版』う42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第9版』ウ30-31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月30日閲覧。
  4. ^ a b c 『大正人名辞典』623頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第10版 上』ウ37-38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月24日閲覧。
  6. ^ 『新選代議士列伝』217頁。
  7. ^ 『日本ダイレクトリー』特20頁。

参考文献

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  • 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。 
  • 清田伊平『日本ダイレクトリー』甲寅通信社編集部、1915年。 
  • 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。 
  • 『衆議院要覧(乙)』衆議院事務局、1928年。 
  • 『富山県知名人物大鑑』富山県知名人物大鑑発行所、1928年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。 
  • 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。 
公職
先代
鳥山敬二郎
高岡市長
第9代:1922年-1926年
次代
南慎一郎
先代
井上政寛
富山市長
第12代:1930年-1933年
次代
金山米次郎