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菊池良一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菊池 良一
きくち りょういち
1913年
生年月日 (1879-10-01) 1879年10月1日
出生地 青森県中津軽郡弘前城
没年月日 (1945-02-25) 1945年2月25日(65歳没)
出身校 京都帝国大学法科大学
所属政党 立憲同志会
憲政会
立憲民政党
国民同盟
親族 菊池九郎(父)
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菊池 良一(きくち りょういち、1879年明治12年)10月1日[1] - 1945年昭和20年)2月25日[2][3])は、大正から昭和前期の日本実業家弁護士政治家衆議院議員。中国通(支那通)として知られた[4]天文学者一戸直蔵の義弟。

経歴

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青森県[2][3]中津軽郡弘前城下(現弘前市[5])で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる[6]東奥義塾第二高等学校を経て[5]、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した[2][3][5][6]

青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み[2][3][6]、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた[5][6]。その後、新聞記者、弁護士[2][6]となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した[2][3][5]

1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で青森県郡部から立憲同志会公認で出馬して初当選[2][3]第13回第14回総選挙で再選され、県内唯一の憲政会の議席を守った[6]。1924年(大正13年)5月の第15回総選挙、次の第16回総選挙では落選した[6]。1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙で再選され[6]、以後、第20回総選挙まで再選され[6][7]、衆議院議員に通算7期在任した[2][3]。この間、国民同盟総務などを務め[2][3]、最後は翼賛議員同盟に所属した[3]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、22頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』199頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』212頁。
  4. ^ 『非常時政界人物風景』29頁。
  5. ^ a b c d e 『粛正選挙代議士名鑑』62頁。
  6. ^ a b c d e f g h i 『青森県人名事典』183-184頁。
  7. ^ 第20回は津島文治の選挙違反による繰り上げ当選。『新編弘前市史 通史編5(近・現代2)』 第四章 戦前・戦中の弘前 p.281-284

参考文献

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  • 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
  • 角屋謹一『非常時政界人物風景:昭和政治家評論』文王社、1936年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 東奥日報社編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。