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青木精一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 精一
あおき せいいち
 青木精一
生年月日 (1883-04-19) 1883年4月19日
出生地 群馬県南勢多郡板橋村
(現・群馬県桐生市
没年月日 (1945-04-14) 1945年4月14日(61歳没)
出身校 正教神学校
前職 ジャーナリスト
所属政党 立憲政友会
昭和会
立憲政友会革新同盟
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青木 精一(あおき せいいち、1883年明治16年)4月19日[1] - 1945年昭和20年)4月14日)は、日本ジャーナリスト政治家立憲政友会昭和会→立憲政友会革新同盟所属の衆議院議員

経歴

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群馬県南勢多郡板橋村(現・桐生市)出身。正教神学校を卒業。日露戦争に召集され従軍。日本電報通信社記者となり、シベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部附従軍記者を務めた。その他、大阪新報社東京支局長、中央新聞社政治部長を歴任した。

1924年大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は7回を数えた。 政友会に所属し、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。同年12月16日に罰金三百円の判決を受けている[2]。また、1934年(昭和9年)に発足した岡田内閣逓信政務次官を務めた。1935年(昭和10年)には政友会を離党し昭和会の結党に参加した[3]1937年(昭和12年)に昭和会が解党すると院内会派の第一議員俱楽部に所属し(院外では無所属)、1939年(昭和14年)に政友会が分裂すると旧昭和会の政友会出身者とともに中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟に復党した[4]

1945年(昭和20年)4月14日、空襲により淀橋区で死亡[1]

脚注

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  1. ^ a b 故正五位青木精一位階追陞の件
  2. ^ 暴行十代議士に有罪判決『東京日日新聞』昭和2年12月17日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p240 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 内田鉄相、望月逓相ら政友会脱退組が組織『中外商業新報』昭和10年12月24日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 『議会制度百年史 院内会派編 衆議院の部』、431頁 - 432頁、434頁 - 435頁。

参考文献

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