安川繁成
安川 繁成(やすかわ しげなり、1839年4月18日(天保10年3月5日[1]) - 1906年(明治39年)8月29日)は、明治期の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。位階勲等は正三位勲三等瑞宝章。旧姓・岩崎。
経歴
[編集]天保10年(1839年)3月、上野国で生まれる[2]。陸奥棚倉藩士・岩崎八十吉の四男[3]。上野国新田郡綿打村大字上田中字六供(かみだなか あざ ろっく)(現・群馬県太田市新田上田中町)生まれ。
白河藩士・安川休翁の家督を継ぎ[3]、江戸に遊学し、大鳥圭介の塾に学ぶ[3]。開成所に転じて学校名が大学南校となるまで学んだ[4]。1867年(慶応3年)慶應義塾に転じ大村益次郎の知遇を得る。慶應義塾卒業後、『開明鑑記』の編集者となる。戊辰戦争では岩倉具視の知遇を得た[2]。
版籍奉還の際に森有礼に推されて行政官になる。その後岩倉具視に命じられて欧米を視察。工部省書記官、会計検査院部長、東京市参事会員[4]。日本鉄道会社監査役、愛国生命保険社長を歴任した。1898年(明治31年)には、第6回衆議院議員総選挙の東京府第1区で当選し憲政本党に所属した[2][5]。
1906年(明治39年)腎炎と糖尿病のため薨去[6]。享年68歳。墓所は青山霊園2-イ18-1の繁成寺墓地[7]。
その他
[編集]1884年(明治17年)には、麻布区笄町126番地(現・港区西麻布4-11-7)に自らの名前を取った浄土宗智明山攝取院繁成寺を開基している[8]。開山は、安川氏の遠祖の智明上人。青山善光寺の住職であった深山法運師が初代住職となった。本尊は阿弥陀如来、他に不動明王、地蔵尊、五百羅漢を祀る[9]。また、秋月子爵の室や毛利公爵の母親などの華族の婦人たちが集まって、念仏を唱えながら鉦を打っていたため、俗にカンカン寺と呼ばれた[10]。また、北白川宮能久親王や柳原愛子といった皇室の人々も参詣した[8]。
茨城県北相馬郡利根町には、旧棚倉藩主の阿部正功が篆額、安川繁成が書を記した「飯島君之墓銘」がある(撰文は中村正直)。飯島君とは飯島利兵衛のことで、下総国北相馬郡上曽根村→文村の豪農で、碑文によると、農作業の傍ら、算術や華道遠州を習うなどした。1871年(明治4年)には村役人に請われて、利根川の測量を行った。1877年(明治10年)9月23日病没。享年67[11]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[14]
- 1890年(明治23年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[15]
- 1906年(明治39年)8月31日 - 旭日中綬章[16]
脚注
[編集]- ^ 人事興信所 1903, 746頁.
- ^ a b c 安川繁成(やすかわ しげなり)とは - コトバンク
- ^ a b c 『群馬県人名大事典』538頁。
- ^ a b 新聞学を拓いた人たち - 関西学院大学「安川繁成という人」の項。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』66頁。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)29頁
- ^ 繁成寺についてはその他の項を。墓石はかつて繁成の個人墓であったと思われるが、現在は彫り直して安川家累代之墓となっている。
- ^ a b 繁成寺 | 港区西麻布にある浄土宗寺院
- ^ 東京名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 笄町ってどこ? - 港区
- ^ タヌポンの利根ぽんぽ行 沼薬師如来と上曽根集会所、飯島君墓銘の項。
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ^ 『官報』第6954号「叙任及辞令」1906年9月1日。
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、故人21-22頁頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 『 郷土の先覚・啓蒙不屈の人 安川繁成』2007年。
外部リンク
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