米沢紋三郎
米沢 紋三郎(米澤、よねざわ もんざぶろう、1857年3月30日(安政4年3月5日[1])- 1929年(昭和4年)11月10日[1][2][注釈 1])は、明治から大正前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長。幼名・随作[1]。諱・元随、字・徳華、号・歌石[1]。
経歴
[編集]越中国新川郡入善村[1](現富山県[2]下新川郡入善町[3][4]入善)で、豪農・米沢与四郎の二男として生まれた[1]。富山藩儒・岡田呉陽の塾に入り漢学を修め、塾頭を務め、20歳で養父が死去し帰郷[1]。1881年(明治14年)実兄が死去し実母の要望で本家に復籍した[1]。
1882年(明治15年)越中改進党の結成に参画し、4人の幹事の一人に就任[1]。同年夏、石川県から富山県の分県が決議され、米沢と入江直友が代表に選ばれ、同年秋に上京して政府に「分県之建白」を提出した[1]。1883年(明治16年)5月に富山県が分立し、同年7月、初の県会議員選挙で当選し、同議長に2期在任した[1][2][3][4]。
1882年、下新川郡の備荒倉の米穀を売却し、郡民に低利融資を行うことを提案し、全部町村連合会の決議を得て義倉社が設立され、棟取の一人となった[1]。その後、下新川郡全部町村連合会議長、勧業諮問委員、入善銀行頭取などを務めた[1][2][3][4]。
1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(富山県郡部、立憲政友会)で初当選し[1][5]、第9回総選挙でも再選され[1][5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4]。この間、政友会協議員などを務めた[4]。
日露戦争時に相場に投資し、資産を減少させたため、1917年(大正6年)長男・米沢元健に家督を譲り隠居した[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、1892年2月)落選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(富山県第2区、1894年9月)落選[7]
- 第7回衆議院議員総選挙(富山県郡部、1902年8月、立憲政友会)次点落選[5]
- 第8回衆議院議員総選挙(富山県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[5]
- 第9回衆議院議員総選挙(富山県郡部、1904年3月、立憲政友会)当選[5]
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』495頁、『立憲政友会功労者追遠録』179頁では11月14日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。