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湯川宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
湯川 宏
生年月日 1918年3月9日
出生地 和歌山県海南市
没年月日 (1986-09-26) 1986年9月26日(68歳没)
死没地 東京都新宿区
慶應義塾大学病院
出身校 東京帝国大学法学部卒業
所属政党 自由民主党
称号 正四位
勲二等

選挙区 旧・大阪1区
当選回数 5回
在任期間 1976年12月6日 - 1986年9月26日
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湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年9月26日)は、日本政治家衆議院議員(5 期)。

経歴

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1918年和歌山県海南市生まれ。和歌山県立和歌山中学校を経て第三高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学法学部在学中、高等文官試験行政科試験に合格。大学卒業後、厚生省に入省した。1941年海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官され南方各地を転戦。1946年に復員した。

1949年より大阪府に勤務し、1951年フルブライト・プログラムおよびガリオア資金留学制度でシカゴ大学に留学。1960年に大阪府企業局長、1967年に大阪府副知事となり、1970年には日本万国博覧会準備事務局長を務める。1971年、同府知事の左藤義詮が落選した際には進退をともにするとして辞表を提出した[1]1975年大阪府知事選自由民主党の要請を受けて立候補した[2]が、現職の黒田了一に敗れ落選した[3]

菅野和太郎の死去に伴い[4]1976年第34回衆議院議員総選挙旧大阪1区から自民党公認で立候補し当選。以降は中曽根派に所属して連続5期務める。1981年鈴木改造内閣経済企画政務次官に就任。また、1983年には第2次中曽根内閣厚生政務次官を務めている。

1986年7月の第38回衆議院議員総選挙では病を押して立候補し5度目の当選を果たしたが、その後に病状が急変し同年9月26日心不全のため慶應義塾大学病院で死去した[5]。68歳没。死没日付をもって正四位勲二等に叙された。追悼演説は同年10月30日の衆議院本会議で、高校・東京帝国大学の同級生であり大東亜戦争でも海軍主計科士官として同じ戦地に赴いた永末英一が行った[6]。なお、改選された第38回衆議院議員総選挙から3か月以内であったため、次点である大矢卓史繰上当選となった。

訳書

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元秘書

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脚注

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  1. ^ 読売新聞、1971年5月2日付朝刊、P.2
  2. ^ 読売新聞、1975年2月22日付朝刊、P.1
  3. ^ 高畠通敏『現代日本の政党と選挙』三一書房、1980年4月15日、110-120頁。 
  4. ^ 読売新聞、1976年11月29日付朝刊、P.13
  5. ^ 読売新聞、1986年9月26日付夕刊、P.1
  6. ^ 第107回 衆議院 本会議 第10号 昭和61年10月30日 - 国会会議録検索システム

参考文献

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  • 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年11月)