八田嘉明
表示
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
八田 嘉明(はった よしあき、1879年(明治12年)9月14日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の鉄道技術者、官僚、実業家、政治家。工学博士。東京府生まれ。
略歴
[編集]- 1892年(明治25年) - 高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)卒業
- 1897年(明治30年) - 高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
- 1900年(明治33年) - 第一高等学校卒業
- 1903年(明治36年) - 東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、山陽鉄道株式会社入社
- 1906年(明治39年) - 逓信省鉄道作業局
- 1926年(大正15年) - 鉄道省鉄道次官
- 1929年(昭和4年) - 7月1日[1] 貴族院議員
- 1932年(昭和7年) - 南満州鉄道株式会社副総裁
- 1939年(昭和14年) - 平沼内閣商工大臣、同拓務大臣、日本商工会議所、東京商工会議所会頭
- 1941年(昭和16年) - 東武鉄道株式会社取締役会長、東條内閣鉄道大臣、帝国石油株式会社総裁[2]。
- 1943年(昭和18年) - 東條内閣逓信大臣
- 1945年(昭和20年) - 北支那開発株式会社総裁(賀屋興宣、津島寿一の後任)
- 1946年(昭和21年) - 2月8日、貴族院議員辞任[3]。公職追放
- 1953年(昭和28年) - 第9代拓殖大学総長( - 1954年9月)
- 1955年(昭和30年) - 日平産業株式会社社長、財団法人日本科学技術振興財団会長
- 1956年(昭和31年) - 国際技術協力開発株式会社社長
- 1957年(昭和32年) - 社団法人日本縦貫高速道路協会会長
家族
[編集]- 父の八田哉明(1844-)は静岡藩士・八田哉幸の長男として生まれ、警視庁で小野田元熈のもとで働いたのち、1892年に北海道集治監空知分監長に就任、釧路、十勝に転任後、1899年に愛媛県監獄署長となり、翌年病気により退官した[4]。
- 弟の八田熈は山東産業社長などを務めた実業家[5]。
- 妹のキクは京都法政学校教授・浅田賢介(浅田敏の大叔父)の妻[6]。
- 長男の八田豊明は熊谷組重役。岳父に中西敏憲。[7]
- 二男の八田恒平は大和副会長を経て金沢ニューグランドホテル会長。岳父に井村徳二。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第751号、昭和4年7月2日。
- ^ 創立総会開く、理事などを決定『朝日新聞』(昭和16年8月30日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p497 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、54頁。
- ^ 釧路集治監第四典獄 八田哉明標茶町『広報しべちゃ』2011
- ^ 八田熈『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 淺田知定『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月
- ^ 八田家(八田嘉明の子孫・家系図)閨閥学
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 八田嘉明 (鉄道省、逓信省を統合) |
運輸通信大臣 初代:1943年 - 1944年 |
次代 五島慶太 |
先代 寺島健 |
逓信大臣 第49代:1943年 |
次代 八田嘉明 (運輸通信省に合流) |
先代 寺島健 |
鉄道大臣 第24代:1941年 - 1943年 |
次代 八田嘉明 (運輸通信省に合流) |
先代 池田成彬 |
商工大臣 第17代:1939年 |
次代 伍堂卓雄 |
先代 近衛文麿 |
拓務大臣 第14代:1938年 - 1939年 |
次代 小磯國昭 |
その他の役職 | ||
先代 伍堂卓雄 |
日本商工会議所会頭 第8代:1939年 - 1941年 |
次代 藤山愛一郎 |