利用者‐会話:EULE/過去ログ4

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「反知性主義」の加筆、ありがとうございました[編集]

はじめまして、茂林寺たぬきと申します。反知性主義の加筆依頼に応じていただき、ありがとうございます。従前の内容では衆愚政治と何が違うのか判然としませんでしたが、ようやく輪郭がわかった気がします。--茂林寺たぬき会話2015年11月13日 (金) 21:02 (UTC)

評価ありがとうございます。付けたすと衆愚政治とはまったく関係ないんですけどね(むしろそう読めたから前は問題があった)。衆愚政治は権力の側が大衆を支配するための方策ですが、反知性主義は、あくまで大衆の側が権力の側(正確には知的権威、エリート主義と結びついた権力)に対抗する主義ですから、方向が全く逆。
本当はこの後、ジャクソン大統領を例に政治権力に対する反知性主義が政治面でもたらした影響の話があったりするんですが、これはおいおい加筆しようと思います。--EULE会話2015年11月14日 (土) 17:55 (UTC)

提案へのご意見ありがとうございました。[編集]

Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (見出し)#「マークアップ」への追記の提案」へのご意見ありがとうございました。返答コメントでかいた投稿ブロックへの提案についてWikipedia‐ノート:投稿ブロックの方針に一節を設けました。回数制限は議論が紛糾しそうなのでもうすこし抑えた提案(検討課題の提出)にいたしました。EULEさんのご意見がきっかけでしたので、あちらでは場違いと思い、こちらへ報告させていただきます。--Kusamura N会話2016年5月10日 (火) 22:45 (UTC) 

ご連絡ありがとうございます。ただ、今回のようなケースを投稿ブロックの理由に入れることには反対します。その活動がウィキペディア的にはどうであれ、少なくともこうした行動のほとんどは善意から行われているのであって、ウィキペディアの仕組みの知識不足が原因に過ぎません。
問題はそこで他者から指摘を受けたときに誠実な対応が取れるかどうかで、「善意からやってる!」「私の行動を禁止するルールはあるのか!」みたいな態度を取られることが問題なのです。そして、これは既に「コミュニティを消耗させる利用者」という形で規定されているものであって、投稿ブロックの条件として直接的に規程するような話ではないと考えます。
私が考えているのは、例えばWikipedia:無意味な記述みたいな形で、ウィキペディアとして「無意味な編集」というようなものを、まず簡単にわかるようなガイドラインを設けた方がいいのではないかという話です。--EULE会話2016年5月11日 (水) 10:41 (UTC)
はい。おっしゃっておられることはわかります。ただ私はああいった大量投稿は善意と言うよりは大量投稿すること自体に快感を覚えているのではないか(「名目」はなんでもよい)という印象を受けています。それはさておき、EULEさんがおっしゃっておられるような(「無意味な編集」の意味が私に理解できているかどうかは別にして)ガイドラインの設置に異論はございません。起草なさったとき、もしご面倒でなければ、ご一報いただければ幸いです。では失礼いたします。--Kusamura N会話2016年5月11日 (水) 14:12 (UTC)
提案についての反対意見の表明をすこし長めに待ちましたが、出なかったので本日追記いたしました。ご報告まで。(Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)#マークアップについて)--Kusamura N会話2016年5月14日 (土) 21:11 (UTC)
確認しました。セクションの件、お疲れ様でした。ブロックの件については、やはりというべきか、他の方も「コミュニティを消耗させる利用者」を挙げられてますし、難しいのではないかと思います。--EULE会話2016年5月17日 (火) 14:59 (UTC)

お聞きしたいのですが[編集]

以前「ガンゲイル・オンライン スクワッド・ジャム」でお世話になった田中です。
最近編集している記事「ダーウィンズゲーム」で出典について現在自分と相手方2人と口論というか揉め事になってるのですが、そこでお聞きしたいことがあります。
まず出典の記載方法についてです。他の記事では大体が公式サイトや動画サイトへのリンクが貼ってあるのですが、出典の記載のやり方が調べてみても自分には分かりません。今までの編集では既に存在している記事への加筆にばかり集中していたので出典の重要性に無頓着でした。それで出典についても誰かがやっていたりしたのでそれに便乗していた形になります。
現在編集している「ダーウィンズゲーム」で出典の記載の無い編集という理由で取り消されて困っていますが、登場人物ひとつひとつに出典が記載されていたので削除したところそこを指摘されました。こちらも非があるので仕方がないのですけど客観的に見てどう思うか教えて下さい。お願いします。一応個別に出典を付けるののではなく、最後の出典の欄に記載すればいいのではとは相手方に言ってはあります。--田中智隼会話2016年12月10日 (土) 03:56 (UTC)
まあ、踏まえるべき、各種方針文書や慣習、根拠や理屈は色々とあるのですが、結論だけ言わせていただくと、ウィキペディアの方針に著しく反していないのであれば、元あった記述や記法を尊重するべきです。出典を明記するには出典の形式についても書かれており、たしかに最後の出典の欄に記載する方式というのもありますが(参考文献式)、逐次出典も何の問題もないですし、むしろ不特定多数が参加するウィキペディアという場所であるならばできれば逐次出典が望ましくすらあります。そこで少なくとも逐次出典で成り立ってる記事に対して、後から来た人間が、勝手に削除して「参考文献式でも問題ないはずだ」は、かなり心象が悪いです。
逆に考えてみてください。例えば田中さんが、本当に一から作成して主執筆者と呼ばれるような記事、それもスタブじゃなくて、ある程度以上に記事として成立しているものに対して、後から来た人間が、そのフォーマットを勝手に書き換えたらどう思いますか?まして、元の記事がウィキペディア的に問題があるならともかく、実際はまったく問題がなくて、単にその人が自由に書くには制限があるってだけなら、嫌な気持ちになりません?
あと、出典をどの程度付けるべきかはケースバイケースです。ただ、フィクション分野では出典がまったくない記事が多いですが、それはウィキペディアとしては問題であって、他の記事に出典がないからこの記事も出典がなくて良いは理由になりません。これは「質の悪い記事が多いから、この記事も質が悪くていい」と言ってるのと一緒で当然ながら認められません。--EULE会話2016年12月10日 (土) 08:33 (UTC)

即座の返答ありがとうございます。ちなみに言うと現在ダーウィンズゲームの総編集回数は30もなく、記事を作った人は2月に作ってから全く加筆していない感じです。その人が作った時に登場人物毎に出典(単行本の何章)を記載されているのが現状ですね。 そして記事の内容は乏しく、簡単なあらすじと登場人物に一文と言っていい紹介文、その人物欄に所有する異能について記載されていた感じです。 確かに自分が丹精込めた記事をあとから大幅に編集されるのは我慢なりませんね。けれど乏し過ぎて記事の基盤となる構造すら出来上がっていない現状では、そこまで必要性を感じなかったのは事実です。出典の大事さ、無ければ記事としての信憑性に欠けるのは今回の騒動で身に染みました。出典内容は末尾の出典欄に箇条書きでも良いと書いてあったので試してみます。この場合単行本だけになってしまうんですけど仕方がないですね。--田中智隼会話) 2016年12月10日 (土) 09:18 (UTC) 田中智隼会話2016年12月10日 (土) 09:18 (UTC)

例えば「空の境界」に登場する浅上藤乃は最後に失明するんですが、本文中では唐突に「光さえ失った」と簡単にあるだけで、普通に読むと失明したことに気づかない人が多いです(実際、私も指摘されるまで気づかなかった)。だから、単に一次資料を出典として上げるのではなく、逐次出典で具体的なページの箇所を指定するか、二次資料でやはり逐次出典でその根拠を書かないと不味いんです。あるいは「逃亡者 (1993年の映画)」のあらすじのように出典を付けているパターンもあります。また、別口だとハリー・ポッターのスネイプなんかは、本来は「するする歩く」という部分が、当初誤訳で「ペタペタ歩く」なんて書かれたとか、「猫撫で声」をやたら出したせいで、スネイプの印象が全然違っていたなんてことがあります。そこで、具体的な記述を出典にするのではなく、一度読者が読み取って頭の中で構築した印象を還元して記述したとしたら、それは誤った記述を行ったことになります。恐ろしいことに、本人としては一次資料をそのまま書いたつもりだから、独自研究をしているなんて思いもよらないのです。
このように、一見するとフィクション分野は作品自体が同時に資料なのだから、一々出典を付ける必要はないと思ってしまうのですが、そうとは断定できない。さらに言えば、読み手が勝手に想像して書いている場合や、あるいは拙い語彙であやまった記述をしている場合もあるから、逐次出典があることに越したことはないんです。
あと、「元が未熟な記事だから」という点に関しては、前にお話したようにそもそもが記事をなるべく一括で書くべきなんです。利用できる部分は引用するとしても、元の記法やフォーマットを尊守するほどもないほど質が悪いなら、もう初めから全部書き直してしまう。そしたら、その記事の最大貢献者になるのだから、それに抗議する者など話にならない(私の直近だとノート:反知性主義とか)。しかし、そこでチョコチョコ部分的に書き足しただけだったり、ただ記載量を増やしているだけで、劇的に貢献しているとは言えないと見なされれば、やっぱり元の記法を尊重しろという話になります。田中さんとしてはベターにしているつもりなんでしょうけど、誰の目から見ても圧倒的な記事への貢献でなければ、自身の理想を通すのは難しいです。--EULE会話2016年12月10日 (土) 10:03 (UTC)

具体的に例を挙げて細かく仰ってくれるEULEさんに感謝します。確かにフィクションである作品は小説だと文章、漫画なら絵と登場人物の会話などから物事を知り得るしかないので、読者によって捉え方が違うというのはあり得ますね。 そして乏しいなら一括で記事の内容を再構築するという発想はありませんでした。「ダーウィンズゲーム」は自分が編集をやりだした時にあらすじと登場人物だけの簡素な物で、作中に出てくる超能力や行われるゲーム内容といった用語がありませんでした。なのでつい先日、主題である「ダーウィンズゲーム」と能力などの一通りの用語をまとめて付け足し、少しずつ記事の拡張を行いました。 Wikipediaは大勢の人が関わり、各々が知っている、興味がある項目(自分ならよく知ってる作品)の編集をやっていて意見の出し合いによって意見の衝突が至る所で起こってることを痛感しますね。 長々とお手数おかけして申し訳ありません。すごく参考になりました。これからなるべく良い方向へ励んでいきます。--田中智隼会話) 2016年12月10日 (土) 17:11 (UTC) 田中智隼会話2016年12月10日 (土) 17:11 (UTC)

ご協力お願いします[編集]

ノート:ソードアート・オンラインにて、作品と登場人物の記事で別れているにもかかわらず、作品の記事側で登場人物の詳しい説明を加筆している利用者がいます。現在当該ノートにて議論中なので時間があれば、議論に参加してもらえますか?--田中智隼会話) 2017年10月4日 (水) 17:32 (UTC) 田中智隼会話2017年10月4日 (水) 17:32 (UTC)

ひとまず内容は承知いたしました。--EULE会話2017年10月6日 (金) 14:37 (UTC)

お聞きしたいのですが…[編集]

依頼の不備で差し戻しとあり、コメント依頼の仕方をもう一度よく見てもわからないので質問させてください。 依頼の件はやはり第3者が介入する問題ではないのでしょうか?--Kaika12会話2017年10月14日 (土) 06:27 (UTC)

Wikipedia:コメント依頼#利用者の行為についてのコメントを、ちゃんと読みましたか?ちゃんと読んで、書いてある通りに行えば当事者でも第三者でも構いません。しかし、言ってみれば相手を告発するという重要な場、いっそう慎重さを求められる場と考えた時に、その正しいやり方がわからない人は、相手を告発するような真似は控えるべきです。
多少の手続きミスであれば、私も一々差し戻しはしないのですが、今回は相手を告発しようとしているにしては、あまりにも軽率・短慮すぎるため、このような対応を取らさせていただきました。--EULE会話2017年10月14日 (土) 06:40 (UTC)
いえ、今回のことに関しては私も相手の指摘の仕方に少しカチんとして軽率・短慮な行動をしてしまいました…申し訳なかったです。--Kaika12会話2017年10月14日 (土) 21:47 (UTC)

テンプレート作成議論のお知らせ[編集]

コメント こんにちは。Wikipedia:井戸端/subj/不自然な日本語の言い回しでEULEさんが話題にしておりましたテンプレートの件ですが、現在テンプレートの素案作成まで議論が進んでおります。EULEさんのみサブページ分割前にコメントしておりましたので、議論の進展のお知らせに参りました。この後はプロジェクト:テンプレートでの提案に移る予定ですので、もしよろしければご意見などいただければ幸いです。--SilverSpeech会話2018年6月7日 (木) 08:50 (UTC)

わざわざご連絡ありがとうございます。コメントいたしました。--EULE会話2018年6月9日 (土) 09:34 (UTC)

出典の明記をお願いできないでしょうか[編集]

こんばんは。EULEさんのこれらの編集[1][2][3][4][5]は、出典のない記述が多く含まれているように見えます。10年活動されているベテランの方のはずですが、これらの加筆を出典を明記せず(もしくは不足したまま)おこなわれたことには何か理由が存在するのでしょうか?今回確認したのは直近の将棋関連記事のみになりますが、他の編集に関しては大丈夫でしょうか。今後は出典を伴った加筆、修正をよろしくお願いします。--Aiwokusai会話2018年8月25日 (土) 12:59 (UTC)

他の分野でもちょっと気になったのですが、この編集この編集なども、後者は参考文献は増やされているものの、脚注・ハーバード方式・範囲の明確な指定いずれによる出典も明記されておらず適切な状態とは言いがたいものになっております(他に「一般論」とされている[6]など)。サブカルチャーは確かに「作品を見た」という1次資料によって人物やあらすじは書かれていることが多いですが、その他の記事では基本的に文章に対して出典を明記することが求められておりますのでよろしくお願いします。--Aiwokusai会話2018年8月25日 (土) 13:42 (UTC)

ご指摘内容に関して、個々のケースによってかなり理由が異なるので、説明するとそれなりに長くなるのですが、まあ、コーヒーでも飲みながら、お聞きください。
①既存の記述を改変するもの
例えば、氏が挙げられました大野源一の編集が好例なのですが、元文章が、単純に文章として悪い、あるいは専門分野の知識があることが前提となっていて優しくない、まあ総じて悪文である場合に、本質的には何も新しい情報を加えたわけではなく、ただ整形しただけというものがあります(このパターンが一番多いかな)。1969年のB級1組順位戦最終局の話は米長哲学の絡みで、当該分野に知識があるものだとよく知られた話なのであり、しかし、編集前だと、将棋分野に知識がないものだと文の趣旨がわかりづらいし(あえて芹沢に言及する価値はないし、なら内藤にも言及するべきだろう)、パラグラフの最後に「いわゆる「米長理論」にやられた格好である。」などと、劇場的に記述するのはおおよそ、事典の体裁には反する。だから直した。ただそれだけです。
かなり文章量が増えていても、本質的には関税自主権も同じで、なにかたどたどしく関税の意味合いについて書かれていたけど(ただ関税自主権の記事において前提と知識として関税自体について説明しておく趣旨は非常に良いものだと思う)、どうせ書くならこれくらい書かなきゃ意味がないじゃろ、として、あえて専門書を引くほどでもないことを書いた感じになります(それこそコトバンクでも使えばすぐに出典はつけられるレベルではあるのですが、それに関しては後述する専門書・単一出典の観点があります)。
もちろん、出典をつけた上で文書を直すのがベストであることに異論はありませんが、出典がつけられないなら悪文は放置しろというなら、それはもう規則主義の問題の最たるものでしょう。例えば大野の件は、米長の『人間における勝負の研究』を出典にすれば解決する程度の見通しはあるのです(他にも先崎学の本でもいけそう)。でも、全体としては結局は無出典の記事で、その一文を直すために、図書館であれ購入であれ、書籍を手に入れてからでなければ、悪文は放置しなければならないというのは、おおよそ合理的とは言い難い。
②ここ最近の将棋分野の編集の件
わざわざ言及なされている通り、最近、黎明期の人物の門下・系譜について編集しておりましたが、これについては①の観点と、局所的な(わざわざPJなどで提案するまでもない)記事間の体裁の統一というのが目的になります。まず、(私は手を入れていないし、入れるつもりもない)阪田三吉の記事がある前提で、例えば小野五平井上義雄は元文がある上でそれを場合によっては連盟の出典をつけて編集しました(①の観点)。で、小菅剣之助のように元々記述がない場合には、他の記事と歩調を合わせるために新規で情報を加筆しました(広い意味で①の観点)。
そうした観点の情報の追加・整理とは別に、問題になってくるのは、系譜上において、今現在だとこんな活躍をしている人がいる、と書くことでしょう。たとえ棋士系統図を出典に挙げて事実を提示していても観点提供の独自研究にはあたってしまう。ただ、じゃあそういう観点を与えることを私が今回始めたかといえばそんなことはなく、阪田の記事や石井秀吉が元々あって、特に石井の元文は出典もない上に、「優れた実績を挙げた棋士が多数輩出されている事を見ると、戦後の将棋界の礎を築いた一人といえる。」など書いており、これはもう明らかにアウトです。だから石井の記事の差分を見ればおわかりの通り、まだマシな形に直している(意見ではなく、事実の提示)という話で、これもまたベターにしているという話になります。では石井の記事とは違って、もともとそういう記述がなく、完全に新しく追加している場合はどうなのかというと、これが後述する予防線の観点になってきます。
軽くまとめますと、結局のところこれも①と同じで、出典が無くても無いなりに、体裁を整えたということになります(ただし、根本情報として必要な出典は追加して提示する)。
③予防線を張る編集
ここまでは既にある記述が悪文などで、それを直したという話でした。で、それとは別に、将来の悪文を制限することも想定している編集もしています。良い例はまさに今回の将棋の編集だと思うのですが、仮に独自研究をしないを厳格に守って、棋士系統図からの弟子については記述するけれども、その系譜上に今は誰々がいるとは出典がなければしないとします。それをやると、何が起こると推定されるか。それは私以外の誰かが、まさに石井秀吉の元文のように、独自研究満載で加筆するんです。既に阪田や石井、あるいは他の棋士の記事でもやられている以上、今回私が編集した記事群でやられないとは何の保証もない。そこで最低限の事実の提示という形で、記載しておけば、そうした編集を抑制できる、という考えが前提にあります。明日の大きなワースより、今日の小さなワースといったところでしょうか。
ここでのウィキペディア的にベストな対応は、常に監視し、そのような悪文が加筆されたら差し戻すなどすることでしょう。でも、それには労力がいるし、とどのつまり、自分が手を入れた記事は未来永劫にわたって責任を持てという話になってしまう。でもそれって記事の私物化とみなされる余地にもつながってくるし、そもそも責任を持たせようと他者が強制すること自体がウィキペディアの理念に反するという問題がある。
④あえて疑わせる編集(あるいは専門書・単一出典の観点)
逐次出典がない場合、ウィキペディアに慣れている人なら疑わしいと判断すると思います。だから、出典をつけろという話なのですが、それを逆手に取って私は疑わしいと(正確には確立した唯一無二の事実や観点ではないと)判断してもらうために逐次出典をつけないことがあります。それがまさに今回挙げられた第一次大覚醒だったりするのですが。反知性主義ではやっている通り、当該の情報源から逐次出典はつけられるし、そもそもローカルで編集していた時は逐次出典つけて記述してました。でも、投稿する時に全部消した
というのは、第一次大覚醒は本来的には宗教や歴史の記事です。で、私が出典にしたのは、現代思想としての本であり、「第一次大覚醒」自体を主題としたものでは無いんです。これらはあくまで「反知性主義」を解説する上で、必要な前提知識としての「第一次大覚醒」を説明しているだけで、本質的に出典の選択が誤っているんです。でも、専門書ではないゆえに、アブストラクト的な意味合いで大覚醒を理解するには良い資料なのですけどね、それを副読本として援用するならいいけど、主出典になっているのはちょっと耐えられない。とはいえ、誰か当該分野に造詣の深い方が専門書で記事を執筆することを期待するほど、当該記事の未来は明るくない。だから仕方ないので、信頼できる情報源だけど、その主題に用いるには厳密には良くない資料で記述を行った。
例えばですね、反知性主義という前提だと、大覚醒はアメリカで起こったものという観点が強くなってしまう。でも、純粋に宗教史としてはヨーロッパにも存在するし、アメリカでもニューヨークとか清教徒でない地域は、そんな騒動なかった。でも、そこまで書くには、どういった専門書があるのか、良いのか、そういう知識が私にはない。だから、書きようがない。これは私が朧気ながらまだ知っているからマシで、実際は、私が知らない部分もたくさんあるでしょう。
「なんだこの記事。観点が非専門的なところに偏っている上に、逐次出典がないじゃないか。専門知識を持っている俺が、専門書を基に全部書き直してやろうか」くらいで、私の投稿が全否定され、ベターやベストな記事が誕生することくらいのことを、私は期待しているのです。まかり間違っても、逐次出典があって見栄えが良いがゆえに良質な記事とも思われるようなことはあってはならんのです。
で、当然、ピュリツァー賞を受賞した本、文句なく権威ある教授が書いてる情報源であってさえ、そういう判断をしているのですから、コトバンク(あるいは紙の事典であっても)、それ単独で記事構成しましたなんていうのは、非常に問題があるわけです。専門書を引くまでもない前提知識であっても、その分野の教科書みたいな情報源で提示するのがベストである。単なる語義定義や副読本くらいなら良いにしても。
まとめ
まず、元が出典のないものを、単に記述を整理して必要に応じて補足しただけのものを、出典がないものとして問題視されても、じゃあ、出典のない悪文を放置した方がマシなの?という命題が残るだけで、おおよそ生産性がないです。
予防線は、それを前提にすると悪用される恐れがあって非常に慎重にならなければならないし、そもそも私はそういうのもあるってだけで多用しているわけではない。本来は、そんな危ない橋をわたるような編集をすること自体、私としても不本意で、本当はPJとかで縛れればいいんですがね。
逐次出典をつけない、あるいはコトバンクでも事足りるような基礎知識に出典をつけないことについては、そもそも、専門知識を持っている方に、専門書で書き直して貰いたいからです。自分の文章がいずれベストな形に全面的に書き換えられる前提で、でも、今として必要と思われる程度の情報は載せておく、悪さ加減の選択は、自分の文章をずっと残しておきたいはず、評価されて欲しいはず、と思っている方々には理解できないでしょうけども(別に氏がそういう人だと言っているわけではないのであしからず)。まあ、そういう欲がある場合には、それこそ、反知性主義なり、田沼時代なりのように、逐次出典できっちりやるわけですが(でもだからこそ他者のようわからん編集でやる気を無くすこともある)。--EULE会話2018年8月26日 (日) 05:06 (UTC)
要点のみを簡潔に具体的に指摘させていただきます。大野源一の編集ですが、EULEさんは素人にも分かりやすくしたようにことをおっしゃいました。が、『往年の大ベテランのA級復帰として世間から注目された大一番であった。』、残念ながらこれはWikipediaでは出典がなければエッセイ調の独自研究となってしまいます。『「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」、いわゆる米長哲学によって本気で臨み』、これも同様です。そもそも出典が明記されていなければその理論にもとづいて内容を変更したところで結果は同じことであって、Wikipediaでは真実よりも検証可能かが重視される、これは公式な方針であることは大ベテランのEULEさんであればご存知のはずであると思われます。そもそも米長理論なるものを出典なしに書かなければよい、書くのであれば出典を明記し、そうでなければ要出典タグを付与もしくは記述を除去する、それでよいではありませんが。出典がないからそれを「よりよい状態」に出典なしに修正する、これは編集する側の感情であって実際には出典のない状態のままではEULEさんが悪文とするものが良くなったというのは個人的な感情に基づく独自のお考えに当たるかと思います。空は青いと同じで、別に誰々が棋士であるとかどの棋院に所属している、また外部リンクにある公式サイトを見れば分かる数字などそういった部分にまで事細かに出典をもとめているわけではないのですから、上で私が挙げた部分には出典を提示するのは当然のことではないでしょうか?
他の例示した編集などでも、「~~には及ばない」、「名伯楽として知られる」、「将棋遊歴の時期に木見と出会い、負かされた木見が関根に入門して弟子となったという資料が存在する」(どの資料?)、「戦後の将棋界を牽引した」、「普及活動や後進育成に熱心な棋士」、「あまり多くないものの」、「将棋界が近代の形へ移っていく最初期」、「各地に将棋組織が乱立し、その統一で揉めた一連の過度期」、「その功労で名誉名人の称号を贈られた。」…いずれもEULEさんの加筆された内容ですが出典が明記されていません。これらは関税自主権も同じであって、「あえて専門書を引くほどでもないことを書いた」というのはそれはEULEさん個人の考えであって、基本的に文章には出典を明記するべきとするWikipediaの方針とは相容れないことになります。過去よりそのように特定分野で活動されてきたとしても、それはたまたま他者の目に止まらずそういった指摘がされなかっただけであり、経歴が長いのであれば逆に簡単に受け入れることは出来ないかもしれませんが、納得していただかないまま参加されると方針と異なる価値観をもったまま編集が継続されてしまうことになります。
誤解を与えたのであれば申し訳ありませんが、私はそう難しいことはもうしあげていないと思います。EULEさんは悪文という呼称を繰り返し主張されていますが、出典がない時点でそれをよいか悪いか個々の編集する側が判断するのは不適切といえます(スタイルマニュアルと明らかに異なる書式などは除く)。すなわち元が無出典の記述であろうが、加筆される場合は出典を明記する、ごくごく単純なお願いをしていることをどうかご理解し受け入れていただけないでしょうか?『それを逆手に取って私は疑わしいと(正確には確立した唯一無二の事実や観点ではないと)判断してもらうために逐次出典をつけないことがあります。当該の情報源から逐次出典はつけられるし、そもそもローカルで編集していた時は逐次出典つけて記述してました。でも、投稿する時に全部消した。(中略)私の投稿が全否定され、ベターやベストな記事が誕生することくらいのことを、私は期待しているのです。 「なんだこの記事。観点が非専門的なところに偏っている上に、逐次出典がないじゃないか。専門知識を持っている俺が、専門書を基に全部書き直してやろうか」くらいで、私の投稿が全否定され、ベターやベストな記事が誕生することくらいのことを、私は期待しているのです。まかり間違っても、逐次出典があって見栄えが良いがゆえに良質な記事とも思われるようなことはあってはならんのです。』とのことですが、信頼できる情報源を元に特筆性のある記述に対し逐次出典を付与した記事はWikipediaの概念では良質と判断されるでしょうし、専門知識のその度合いによって記事の出来のよしあしが決まるわけではありません(大小はさすがにあれど)。こういった目的外利用にも近い考えにもとづく意図的な編集は今後一切おこなわないようお約束できませんでしょうか。よろしくお願いします。--Aiwokusai会話2018年8月26日 (日) 08:24 (UTC)
将棋分野で行った形式の編集については承知いたしました。確かにおっしゃられる通り、単純な置き換え以上に、評価に関わる語彙の追加が存在いたしました。
ただ逐次出典に関してはやはり認識が一致しないようです。「信頼できる情報源を元に特筆性のある記述に対し逐次出典を付与した記事はWikipediaの概念では良質と判断されるでしょうし」、だから、良質と判断されないようにしているという話です。「専門知識のその度合いによって記事の出来のよしあしが決まるわけではありません」、これも勘違いしておられるようですが、ここでいう専門知識とは、妥当な出典の選択・判断を行える専門知識です。ゆえに出典によって記事の出来の良し悪しが決まるんです(ゆえに専門知識の有無で記事の出来の良し悪しも判断できるというのはありますが)。信頼できる情報源に、「もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です」と書かれているのはそういうことですよ。
実際に私が行ったように、森本あんりの『反知性主義』で、第一次大覚醒についての記事を書くことはできるし、逐次的な出典まですれば、それはウィキペディアの概念で良質と判断されてしまうでしょう。森本は権威ある人物と言えるし、ホフスタッターのピュリッツァー賞を受賞した原典(訳本)まで持ってくれば尚更です。しかし、扱う主題が異なる以上、それが、その主題に必要な説明を包括できている保証がない。先にも述べた通り、大覚醒が起こったのはニューイングランドを中心といっても、清教徒が少ない地域では起こらなかったと言われている。これは割と重要な観点ですが、でも、それはそれらの出典に記述は無いんです。言うまでもなく、それは森本らの本が信頼できない情報源だからじゃなくて、ただ、反知性主義の説明がメインだからそこまで詳細な事柄は扱っていないということです。で、これは少なくとも私が認識している欠点の1つであり、他にも専門知識を有さない(すなわち適切な出典の選択ができない)私が認知すらしていない欠点も数多くあるでしょう。でも、ウィキペディアとしては信頼できる情報源が基になっている以上、良質と判断されてしまう。
例えば既にある脚注のある記述に対して、それを除去して回って信頼性を貶めているとか、こうした考えを他者にも強要しているとかなら非難されるのもわかるのですが(というかそんなことをしたら特に前者は即ブロックが妥当ですが)、参考文献方式で最低限の筋は通しているものを、現況で推奨されている形式ではないから、目的外利用(近いなどと言葉をごまかすような真似をせず)として止めろなどと言われるのは、いささか強引だと思います。
ただ、関税自主権に関しては、そういう筋すら通せていないのは認めるところであり、近いうちに、それこそコトバンクでも使って出典を載せます(加えて最初の通り、そこにコトバンクでもカバーしきれない評価に関するような部分がもし入り込んでいたら、それは除去する)。--EULE会話2018年8月26日 (日) 10:48 (UTC)
(連絡)失敬。最低限行おうとしていた関税自主権に関しても身の回りが忙しくて実施できてません。明白な問題に対する対処作業以外は、今しばらく待ってください。--EULE会話2018年9月6日 (木) 15:22 (UTC)