利用者‐会話:Prince Skyline S54B
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こんにちは、Prince Skyline S54Bさん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
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記事の移動
[編集]記事の移動(改名)についてお願いがあります。 記事の移動は極力、画面右上にある▼プルダウンの(移動)を利用してください。コピー&ペーストによる改名は極力避けてください。今回の移動に関しては元記事の執筆者が貴方一人であるために大きな問題とはなりませんが、複数の編集者が居た場合、履歴不継承となります。Help:ページの移動もご覧ください。--OskNe(会話) 2013年7月29日 (月) 15:39 (UTC)
注釈と出典を分ける編集について
[編集]はじめまして。Wjp28yと申します。悠仁親王をはじめとする記事で、「出典と注釈を分ける。」などとして編集しているのを見てお願いがありこちらに来ました。
注釈と出典を分けて可読性を高める編集は良いのですが、Prince Skyline S54Bさんが行われている編集はHelp:脚注を元に行われているのでしょうか。そのページでは注釈、出典の順と定められています。このルールを逆にされてますと、注釈内に出典があるとき(脚注を入れ子にしたとき)にエラーが発生しています。日本語#cite_note-157が例になるかと思います。
以上、よろしくお願い致します。--Wjp28y(会話) 2015年8月13日 (木) 09:52 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。ルールを再確認の上、以後対応させて頂きます。--Prince Skyline S54B(会話) 2015年8月13日 (木) 13:35 (UTC)
機械的な編集に反対します
[編集]注釈リストと出典リストを分離する編集をされておられますが、明らかに必要がないと思われるものを機械的に分離しないでください。機械的な編集に反対します。
本来、その編集は、記事の中で、出典(参照した情報源)の書誌情報と、注釈(補足説明)によって、脚注のなかが混在していて、一見では判別しにくいものに限れます。これは脚注で牽かれている数が少なくとも40-50はある場合でしか起こりません。ウィキペディアのレファレンスは非常見やすいので、判別しにくいなんてことは数が多くない限り、まずありません。
10を切るような僅かなものをわざわざ分離しないでください。無駄な目次を増やすだけで、利便性は全く向上しません。注釈リストと出典リストを分離する編集は、条件を選んで下さい。この件は、いずれ井戸端などでも議論したいと思います。--Quark Logo(会話) 2016年6月22日 (水) 07:15 (UTC)
- 本件は数量の多寡(10個以上、未満等の)ではなく、「語義」の問題と考えました。Wikipedia日本版のみ、本来本文にて記述すべき事を長く脚注に追記を重ねる傾向が多いと見受けられましたので(多くは典拠無しに)。その辺りの曖昧さを直した次第です。万人編集可能なパブリックな自由百科事典なのか、あるいは個人ブログの延長なのか(各ページそのものに著作権は無いはずですが)、微力ながら分ける一助となるかと思った次第です。とは言え以上も私「個人」の考えであり、(Wikipediaのコンセプトに依拠しているか、していないかを明確にすると仰るならば)別途議論の場を設けられる事に異存はありません。--Prince Skyline S54B(会話) 2016年6月22日 (水) 07:38 (UTC)
- 著作権については承知しています。その件は問題にしていません。しかし氏の編集は、すべてが注釈の側に入るものや、すべてが出典の側に入って、空欄となるような分け方をされています。それが明らかに意味がありません。また全体が少なく、分ける必要がないと思われるものも分けられています。それをすると、目次の個数が増え、短い記事が過度に分割されることになり、利便性を損ねていると思います。
- 良かれ思ってやられているのでしょうが、少なくとも、大量の脚注が付いているものをまず優先して、分離の編集をされてはどうでしょうか。私の見るところ、良質な記事とされているもののなかにすら、脚注の表記が間違ってる物が多々見られます。私のそもそもの疑問は、なぜこんな短い記事でわざわざ分割するのか、ということです。作業するべきことはたくさんあるのに。大きな記事の脚注の整理こそ必要な物であって、求められる編集だと思うのですが。--Quark Logo(会話) 2016年6月22日 (水) 07:48 (UTC)
- 「空欄」については、その後そこが埋まるかどうか、章のタイトルを「出典」か「注釈」のどちらか一つにしてしまうと、これまたそれがお嫌いな方もいらっしゃった事に起因した折衷、と申し上げて起きます。そこは私の個人的な経験でしか無いので申し上げるのもおかしいかも知れませんが、強いて申せば、「場(この場合は空欄)は設けます。あとは諸賢、ご随意に改変の程を」です。
- 次に、良いページかそうでないかは各位のご判断に任されており、私も「そこ(良し悪し)」には関心が無く(または敢えて持たないようにしており)、「検証可能かどうか」がWikipediaで最重要だと別の議論を端で拝見して学んだのみです。(つまり、記載内容が「正しいかどうかも」最も重要ではなく、第三者がそれを調べることが可能かどうかのページ上での体裁がより重要だとも。)
- 元々の記事の長短や、そのボリュームによる優先順位も私には全くありません。それは個々人の「中」での分類だけの問題であると認識しておる次第です。
- もちろんのこと、当方にてWikipediaの明文化された規定・方針に違反する事があり、諸賢からそのご指摘があれば、今後一切指摘があった行為は控えます。(この上に、その種のご指摘が過去にありましたので、残してあります。)
- それはさておき、ご意見、有難く頂戴致しました。--Prince Skyline S54B(会話) 2016年6月22日 (水) 08:55 (UTC)
は? 部分的に意味の分からないことをおっしゃってますが、良質な記事(Wikipedia:良質な記事)というものはウィキペディアで選定されているものです。これに似たものに秀逸な記事(Wikipedia:秀逸な記事)というものもあります。選考が行われているとかご存じないということでしょうか。別に私が選んだわけでも何でもないので、良質な記事というものが前からあるということを念頭にお願いします。
あと、いずれにしても、出典と注釈を分離しても検証可能性は向上しません。タグを付けて回ることも、注意喚起程度で、記事の向上には編集者自身が問題意識をもって、出典を調べて、内容を検証して、必要ならば追加していかなければなりません。脚注が百も二百もある記事の場合、脚注の整理も重要な仕事です。私も経験がありますが、かなり手間のかかる作業です。脚注で参照方法を明示できるようにすることは重要ではありますが、出典表記の方法はWikipediaの明文化された規定された方針を見ると、脚注を付けなければならないわけでありません(Wikipedia:出典を明記する)。ガイドラインには確かに矛盾した内容がありますが、参考文献のところに書籍情報を表示すれば良いのであって、脚注の利用は推奨事項です。そして出典にしろ注釈にしろ、脚注を増やして行く作業は重要ですが、今ある物を分けただけでは意味がないのです。つまり、出典と注釈で分けたいのならば、記事を加筆して30も40も脚注情報が付いた状態に発展させてくださいということです。それなら何の文句もありません。しかしやられていることは、実際には検証可能性の向上には役に立っておらず、無駄な改行、無駄な章分け、レイアウトを壊し、非常に機械的な作業であるという印象を受けています。違反はしてないのでしょうが、いくつかは、不要な編集です。--Quark Logo(会話) 2016年6月22日 (水) 09:30 (UTC)
- 再度確認しますと、当方の規約違反を規定するものがあり、当方がそれを知らぬままなのであれば、ご提示下さい。そこで一瞬にして議論は終了し、当方が以後その規約を順守して、この議論は済みます。個々人の「編集方針についてこう思う、ああ思う」という印象・感想については、お互いに拘束力を持ちません。個人ブログではありませんので。ゆえに、規約違反か否かに、その一点のみエヴィデンスをお待ち申し上げます。当方に違反があれば必ず以後規約を順守する事をお約束します。 --Prince Skyline S54B(会話) 2016年6月22日 (水) 12:42 (UTC)