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利用者‐会話:Samhanin

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ウィキペディア日本語版へようこそ!

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Samhaninさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。--Trgbot会話2015年11月18日 (水) 00:37 (UTC)[返信]

芳蘭公司のseal

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That image's source is from private web site. please see WP:VERIFY. --Tonbi ko会話2016年7月23日 (土) 14:31 (UTC)[返信]

Sorry, my English is not so good. So I'm gonna speak Japanese language.
つまり、出所が適切でないということですか?それなら、このインターネットの記事は出所としてどうですか?[1]--Samhanin会話2016年7月23日 (土) 16:12 (UTC)[返信]

のinfoboxの地図が説明の西暦と合ってない様です

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こんにちは

のinfoboxの部分の編集をされていたので、ちょっと気になったのですが、地図と説明にある西暦が合ってない様です。

前は1820年(19世紀)の地図 だった様ですが、Samhanin さんが変更したSVGの地図 は、1765年(18世紀)の地図の様です。

でも、地図の説明は「清の最大領域(1820年)」となっています。

変更前の1820年の地図は PNG しかないみたいですね。

何度か編集しあっている様ですが、僕としてはどっちの地図が良いとかのコダワリはないですが、図と説明が合ってないのはあまり良くないかなと思っただけです🙇🏻 Rrzy会話2021年11月10日 (水) 03:24 (UTC)[返信]

@Rrzy: こんにちは、Rrzyさん。
地図の西暦は、おっしゃったとおり1765年の基準で合っています。
ですが、この地図の疆域において清の領土の変化が本格化した時期は1840年代からなので、1820年と言っても間違いはありません。
中国語版ウィキペディアの場合1820年代と表記し、自分はそれを参考しで編集しました。
ただ、地図の西暦を表記するのがより正しいので、編集しなおします。----Samhanin会話2021年11月10日 (水) 06:26 (UTC)[返信]

清の地図について

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今使っている地図は、清王朝の支配領域を明確に示す、一目瞭然な地図にしております。中国版ウィキを適応して、変わる必要はありませんですから。もしかしてSamhaninさんはsvgに欲しいですか。ならば、ファイルの転換はもうしておりますので、ご安心してください。--部活のお嬢様会話2022年1月11日 (火) 10:29 (UTC)[返信]

新羅の軍旗について

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はじめまして、突然すみません、新羅の記事に追加された軍旗の画像について確認させてください。機械翻訳での確認になりますが、[2]の"Source"を見ると三国史記の原文と大邱新聞という新聞記事が出典としてつけられています。基本的にこれらは日本語版Wikipediaの歴史関連記事としてあまり適切ではない出典です。この軍旗画像について、新羅当時の画像史料または専門家による復元であることを確認できるような二次資料は存在するでしょうか。歴史書の記述と新聞記事を元にして作られたオリジナルの画像のように思われ、記事に掲載するには不適であると考えています。--TEN会話2023年1月24日 (火) 12:35 (UTC)[返信]

はじめまして、おっしゃるとおり、その旗の出所は三国史記の原文(三國史記 卷40, 雜志 9, 衿)とこれを引用した韓国の学術論文(신라 통일기 5주서의 역할과 위상,홍성열(Hong, Seong-yeol), 북악사론 제15집 / 2022 67-98 (32 Pages))、そしてこれをもとに大邱新聞側で復元したものをもとにしています。 日本語版ウィキペディアのルールでどの程度の出典を求めているのかは私にはよくわかりませんが、一次史料に旗の造形が正確に書かれていて、これをもとに大韓民国の国や地域の懸案について扱う大邱市の日刊紙で関連イラストレーションとより具体的な旗の造形に関する記事を載せたので、これをもとに私がバクターファイルを製作しました。--Samhanin会話2023年1月25日 (水) 12:32 (UTC)[返信]
返信ありがとうございます。日本語版Wikipediaでは基本的に一次史料を元に独自に考察した内容はあまり推奨されません。また、新聞記事も歴史学者による記名の記事などでなければ基本的には歴史分野の出典には適さないと思います(新聞記事については異なる見解を持つユーザーもいます)。また三国史記の記述を確認したのですが、卷40, 雜志 9は新羅の軍制の説明になっており、それによる限り、衿を「身に着ける」ことで将軍の階級を指し示すもので、旗の説明ではないです。新羅の記事に出典として付けられていた三国史記の記述は以下のようなものです(日本語訳:井上英雄)
"(衿は、)おそらく、『書伝』でいう「徽織」であろう。『詩経』(小雅)では「織文・鳥章」といい、(その)箋に「織は徽織(美しく織ること)で、鳥章は鳥や隼の模様で、将帥以下の衣服には、みなついている」」といっている。『史記』『漢書』ではこれを「旗熾」という。熾は織と字は異なるが、音は同じである。『周礼』の司常(条)の九旗に普通とは異なったものを描くことは、「徽織」が他と区別するためのもので、国内にいるときは朝廷での地位をあらわし、戦場にあってはまた、職分を象って作り、これを着て、戦死のときに備えた。(新)羅人の「徽織」は、青・赤などの色で区別をし、その形は半月形を象っている。罽もまた衣服の上に着るが、衣の長短の制度は不明である"
ですので、これは新羅の将軍たちが階級章として半月の形の織物などを身に着けていたという記述であり、ここからこの図案は復元できないように思われます。申し訳ないのですが、これを軍旗として付加するのは、新聞記事ではなく専門家による復元図が出典にない限りは避けていただきたく思います。突然申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。--TEN会話2023年1月25日 (水) 13:47 (UTC)[返信]
引用を確認しました。 まず上記の日本語版ウィキペディアのルールについてですが、出所として新聞記事の引用について禁止されたりするわけではないんですね。 引用について、日本語版ウィキペディア内でも異なる考えを持つ利用者もいるとTENさんもおっしゃっていましたしですね。
私が引用した大邱新聞では輝織の他にも新羅が半月の象徴を宮や多様な様式で使った点を叙述し、三国史記の該当の一節で旗など軍隊武官の旗飾りを書いたという記録が登場します。(弟監花、軍師監花、大職人尺主花など)そしてそれをもとに記事の説明とイラストレーションをもとに復元したのがその旗です。
一応TENさんが日本語版ウィキペディアにその旗を掲示しない理由についてはわかりました。 ただ、私は自分の独自研究ではなく、史料と関連新聞記事を参考にして製作したという点を明確にするため追加で書きます。
そして少し違う話ですが、日本語版ウィキペディアのの文書や胡朝の文書などに出典すら見つけにくい旗をテンプレートに掛けているのを見ると、日本語版ウィキペディアがおっしゃったようにハードルが高い基準を持っているのか少し疑問を感じます。--Samhanin会話2023年1月25日 (水) 14:45 (UTC)[返信]
返信ありがとうございます。胡朝の記事はどちらも出典不足などのTemplateが貼られている通り基準が満たされてない記事で、基本的にはこれらの記事の国旗記載も不適切な状態だと思います。三国史記の卷40, 雜志 9を一通り読んでみましたが、花は旗竿に付ける飾りであり、弟監の花は熊の頬の皮、軍師幢の花は虎の尾、大匠尺幢主の花は熊の前足の皮ということで、少なくともここに旗自体の記述は無く、「軍旗」の記載には三国史記, 卷40, 雜志 9とは別の出典が必要かなと思っています。復元自体の出典が見つかった時に改めて検討できればと思います。--TEN会話2023年1月26日 (木) 13:38 (UTC)[返信]
日本語版ウィキペディアの場合、残念ながらルール通りに管理が行き届いていない見たいですね。 私が言った文書以外にも、日本語版ウィキペディアの様々なところで出典が全くないフィクションの旗があるのを見るとですね。あの旗はTENさんが納得できる参考史料や論文を見つけたらまた返信します。編集お疲れ様です。--Samhanin会話2023年1月26日 (木) 15:09 (UTC)[返信]

Emblem of Tibet (1947)

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Hi Samhanin, I found your Circular emblem of Tibet (1947). I think you draw one important point there, as it is hard to find reference about this. I could find a reference citing the display of emblems (coat of arms) at the Asian Conference (Darvesh Gopal, Asian Relations. Report of the Proceedings and Documentation of the First Asian Relations Conference, New Delhi, March-April 1947, Authorspress, 2003, ISBN 9788172731120, 8172731124, p. 17 : "From behind the rostrum hung banners of some participating countries, while stuck to it in front were multicoloured shields bearing the coat of arms of some others.") and introduced it in the French Wikipedia page about the Emblem of Tibet. However, a user on French wikipedia is requesting more references to prove that the image of Tibet symbol is an emblem or coat of arms of Tibet. Even though this is quite evident from the photo, do you know of any reference describing the symbol of Tibet display at this conference in 1947 as an emblem or coat of arms? Best wishes, --Rédacteur Tibet会話) 2023年8月10日 (木) 13:49 (UTC) PS, I found another one : Jamyang Norbu, Independent Tibet – The Facts, 4 mars 2010. --Rédacteur Tibet会話2023年8月10日 (木) 14:09 (UTC)[返信]