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甲斐国御手伝普請(かいのくにおてつだいふしん)は、江戸時代中期の延亨4年(1747年)11月から翌延享5年(同年7月12日旧暦、以下同じ)に改元して寛延元年)にかけての二ヶ月間に実施された、鳥取藩岡藩江戸幕府に命じられ甲斐国で行った治水工事。両藩あわせて約1700名の藩士が甲斐国へ派遣されて治水工事を行った。

近世甲斐国における治水[編集]

信玄堤(堤防から釜無川を望む)

甲斐国中部地方の内陸部に位置し、周囲を山々に囲まれた山国。中央に位置する甲府盆地の東西に釜無・笛吹川の二大河川やその支流である諸河川が流れ、古くから洪水が多発する水難の地であった。特に釜無川とその支流である御勅使川は氾濫を繰り返し、釜無川の旧流路は戦国時代の甲斐国における政治的中心地である武田城下町南部にも及んだ[1]

戦国期には甲斐国守護戦国大名武田氏による治水事業が本格的に行われ、永禄3年(1560年)以前から天正年間にかけて、釜無・御勅使川が合流する竜王(甲斐市竜王)の地に信玄堤が築造され、堤防管理のための竜王河原宿が新設された((『シンボル展 信玄堤』、p.2)。

武田氏滅亡の近世初頭において、信玄堤をはじめ釜無川の諸堤防の整備は徳川氏や豊臣大名により継続され、釜無川の流路は現流路に固定された[2]。一方でその後も甲府盆地における水害は頻発し、延亨4年以前では享保13年(1728年)、享保15年(1730年)、元文元年(1736年)などに水害が発生している[3]

甲斐国と鳥取藩・岡藩[編集]

甲斐国の領主は武田氏の滅亡後、織田氏徳川氏羽柴氏加藤氏浅野氏の豊臣大名、再び徳川氏を経て、江戸時代初期には甲府藩が成立する。甲府藩主は甲府徳川家柳沢氏と続き、この時代にも治水事業は継続された。享保9年(1724年)に柳沢氏は大和国郡山藩奈良県大和郡山市)へ転封され、御手伝普請が行われた延亨年間には甲斐一国が幕府直轄領(天領)となり、甲府町方は甲府勤番、在方は三分代官による支配となっていた。

池田重寛肖像(一部)

鳥取・岡両藩はともに西国に位置する藩。鳥取藩は中国地方に位置し、因幡国伯耆国(ともに鳥取県)二国を領する。藩主は池田氏で、延亨4年・翌5年時の藩主は宗泰重寛(勝五郎)。重寛は宗泰の嫡男で、宗泰は延亨4年8月21日に死去しており、勝五郎は幼年であったが幕府から家督相続を認められた。

岡藩は九州地方北部に位置し、豊後国大分県)の一部を領する。藩主は中川氏で、延亨4年・翌5年時の藩主は久貞

甲斐国御手伝普請に関する史料[編集]

甲斐国御手伝普請に関する史料は鳥取・岡両藩の藩政史料と甲斐国の在地史料に分類される。

鳥取藩の藩政史料では同藩の家老日記である「延亨四丁卯年正月 控帳」(以下「延亨四年控帳」)、「寛延元辰年正月ヨリ控帳 九十五」(以下「寛延元年控帳」)、および同藩江戸留守居役の公用日記がある。いずれも鳥取県立博物館所蔵。

岡藩では藩主中川久貞の事跡を記した「久貞公御年譜」(竹田市歴史資料館所蔵)がある。

一宮浅間神社

一方、山梨県内では在地に残る関係史料が見られる。巨摩郡東南湖村南アルプス市西南湖)に居住した医師名主の有泉家文書(山梨県立博物館所蔵)に御手伝普請に関する基本的事項が記されている。

八代郡高田村(市川三郷町高田)に鎮座する一宮浅間神社年代記である「一宮浅間宮帳」の七冊目には洪水の発生、堤防の決壊から御手伝普請の経緯、さらに治水技術や地域の経済状況まで記されている。

編纂史料では宝暦2年(1752年)に甲府勤番士の野田成方が記した『裏見寒話[4]においても言及されている。

甲斐国御手伝普請の経緯[編集]

復元された信玄堤の聖牛(牛枠類の一種)

中世から続く甲斐国の治水は江戸時代には甲州流治水工法と呼ばれる独自の治水技術を形成し、甲斐国のみならず諸国へ伝播した。代表的な事例として堤防護岸する目的で敷設される牛枠類は関東地方や東海地方においても分布しており、甲斐国において治水や用水堰開削を主導した幕府代官は諸国においても治水を行っている。こうした甲斐国から発した諸国との治水ネットワークに対して、甲斐国御手伝普請は他国から甲斐国へと渡った治水の事例として注目されている。

鳥取・岡藩士と甲斐国の交流・御手伝普請の影響[編集]

甲斐国御手伝普請が行われたのはわずか二ヶ月であったが、甲斐国に滞在した両藩士と甲斐国の人々の間には交流があった。江戸時代に巨摩郡京ヶ島村早川町)の名主であった「斎藤家資料」(山梨県立博物館所蔵)には延亨5年「和歌・俳句等書上」がある。これは延亨5年2月から4月はじめにかけて、京ヶ島村名主・斎藤善左衛門と岡藩士・芦沢仁右衛門らの間で交わされた和歌俳句狂歌が記されている。

ご普請の甲斐や河内京ヶ島芦沢の君すくふ里哉 — 「和歌・俳句等書上」

参考文献[編集]

  • 『山梨県史』通史編3近世1 山梨県、2006年
  • 『山梨県立博物館 調査・研究報告10 甲斐の治水・利水技術と環境の変化』山梨県立博物館、2014.3
  • 『シンボル展 信玄堤』山梨県立博物館、2008年
  • 『水の国やまなし-信玄堤と甲斐の人々-』山梨県立博物館、2013年
  • 西川広平「近世甲斐国における川除普請-鳥取藩・岡藩による御手伝普請をめぐって-」『山梨県立博物館 研究紀要 第7号』山梨県立博物館、2013年
  1. ^ 『シンボル展 信玄堤』、p.3(注:同パンフレットには頁名が記載されていない。表紙から数えて3頁目。以下同じ。)
  2. ^ 『シンボル展 信玄堤』、p.3
  3. ^ 『水の国やまなし』、p.107
  4. ^ 『甲斐叢書』第六巻所載