利用者:のりまき/予備作業室2

いちじょう さゆり
一条 さゆり
プロフィール
生年月日 1937年6月10日
没年月日 1997年8月3日
没年齢 60歳(数え61)
出身地 日本の旗 日本埼玉県川口市
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重 cm / kg
活動
ジャンル ストリップ
モデル: テンプレート - カテゴリ

一条 さゆり(初代)(いちじょう さゆり、1929年6月10日[1] - 1997年8月3日)は日本ストリッパーポルノ女優。本名、池田和子

新潟県柏崎市出身[2]

1960 - 70年代にかけて一世を風靡した。

生涯[編集]

少女時代[編集]

一条さゆりは1937年(昭和12年)6月10日、埼玉県川口市に生まれた。結婚前の姓は須山であった。父は一条さゆりが生まれた当時は鋳物職人であった。一条さゆりは9人兄弟の7女、8番目の子どもであった。しかし多くの兄弟は病弱であり、9名のうち5名までが幼いうちに死亡し、長女も若いうちに肺結核により死亡したため、3女、4女、そして7女の一条さゆりの3名が生き残る形となった[3]

父は鋳物職人を辞めた後、保険の外交員、そして晩年は病院に勤めていたという証言がある。また戦前隣組の組長をしていて、また戦後は県税事務所からの委託を受けて徴税事務を行ったりしていたと伝えられている。近所からの評判は良く、世間体の良い人物であった反面、給与を貰うやいなや飲む、買うに費やして家になかなかお金を入れなかった。父は[4]

一方、母は病弱な人物であった。母は一条さゆりの姉によれば優しい母親であったというが、父は酒飲みであるに加えて酒乱であり、日常的に母は父から暴力を受けていた。そのような母は1944年(昭和19年)、一条さゆりが7歳の時に亡くなった。母が亡くなった時、3女は既に家を出ており、4女は母の遺言により母の妹に引き取られることになった。4女を妹に引き取ってもらったのは父の酒による暴力を懸念した母の配慮であったという。その結果、父以外では7女の一条さゆりのみが家に残されることになった。そして母が亡くなって2カ月足らずで、父は吉原で芸者をしていた継母と再婚することになる[5]

継母は、実子ではないが継母の子として入籍していた一条さゆりよりも8歳年下の女子を連れて父と再婚した。派手で几帳面な人物であったという継母は、家計簿をしっかりとつけ、家計のやりくりにうるさかった。いったんは亡くなった実母の妹宅に引き取られていた4女は戦後再び須山家に戻ってくることになったが、4女と幼い一条さゆりは継母からの冷遇に苦しめられる[6]

金銭的に細かかった継母は、一条さゆり、そして家に戻った4女に対して経済的に冷遇した。例えば実家に戻った4女は就職しており、給与を継母に全額渡していたが、4女はわずかなちり紙代と石鹸代を渡されるのみで、芋ばかりの弁当で通勤していた。その一方で継母と父は白米を食べており、4女と一条さゆりはいつも野菜と芋ばかりの食事であったという。その一方で継母の実子として須山家に入った義妹は可愛がられていた。再婚後も酒乱であった父の暴力は家庭内で日常茶飯時であった。その上、継母も幼い一条さゆりに対して折檻を繰り返していた[7]

そのような環境下で成長していった一条さゆりには、やがて嘘が身につくようになった。4女は一条さゆりの嘘は、義母からの冷遇に起因していると断言している。4女は職場結婚をしていったんは婿養子の形で須山家に入るものの、義母と仲違いですぐに夫婦で家を飛び出してしまうと、一条さゆりは文字通り須山家の中で孤立無援となってしまう。自宅に居ることが苦痛でしかなかった一条さゆりは、2人の姉に頼ろうとしたこともあったが、戦後まもなくの混乱期、2人の姉には一条さゆりのことを助ける経済的余力は全くなかった。家にいたたまれない一条さゆりは、小学校高学年の頃には放浪癖が身につくようになった。しばしば家の近くの寺の境内で寝泊まりをし、中学1年の頃にはヤクザから覚せい剤を打たれ、荒川の土手を夢遊病者の様に彷徨っているところを警察に保護され、4女のところに連絡が入ったりもした。しかもこの時、一条さゆりが家から行方不明となっても父と継母は捜索願等は全く出しておらず、放ったらかしであった[8]

幼くして放浪癖が身についた一条さゆりに対して無関心であった父や継母。そして酒乱の父と継母から受け続けた虐待といった日々の中で、一条さゆりはしばしば自殺未遂を繰り返す[9]

やがて家に寄り付かなくなった一条さゆりは、奉公に出されることになった。奉公先は何度か変わったと見られているが、いずれも韓国・朝鮮人の過程であったとされる。また後に一条さゆりは自らの施設生活体験をよく語っていたが、実際に児童養護施設に入った経験があるのかどうかはかっきりわからない。4女は施設に預けられたことは無いとしている。やがて奉公先から蒸発し、一時期音信不通となるが、17歳の頃には宇都宮でパチンコ店での住み込み就労を開始することになる[10]

結婚[編集]

パチンコ店時代の一条さゆりは計算が不得手なため、お金の計算をしなくて済む部署に配置転換されたとのエピソードが伝わっている。やがて同僚の男性と知り合い、交際するようになった。交際男性と一条さゆりはまもなくパチンコ店を辞め、上京してアパートで同棲生活を始めた。二人の間には長男が生まれ、長男の誕生後、婚姻届けを出して一条さゆりは夫の姓である池田姓となる[11]

長男誕生当時、夫はプレス工場で働いていたが、長男誕生直後に辞めてしまった。夫が定職を失い、ほどなく経済的に困窮するようになると夫婦仲に亀裂が入りだす。また一条さゆりは経済感覚に欠け、手持ちのお金を使いこんでしまうこともあって、更に経済的困窮に拍車がかかった。結局一条さゆりは夫を家から追い出した上で、生まれたばかりの長男を乳児院に預けることにした。夫とは約1年半しか一緒に暮らしていなかった。独り身となった一条さゆりはやがてキャバレーに勤めるようになった。夫との別居後、しばらくの間は音信もあったが、やがて夫と一条さゆりとの間の音信は途絶える[12]

なお、一条さゆりはいったん婚姻した夫との籍を亡くなるまで抜くことは無かった。つまり一条さゆりは婚姻後、亡くなるまで池田姓である。約1年半で別れた夫は、その後実体が無くなった婚姻関係を終了させるべく、家庭裁判所で相談もしたというが、離婚は最後まで出来なかった[13]

ストリッパーとなる[編集]

夫と別居後の一条さゆりは、まずは水商売を転々とする生活を送っていたようだが[14]、1958年(昭和33年)初め頃には知人の紹介で銀座のキャバレーに勤めるようになった。一条さゆりが勤めた銀座のキャバレーは源氏名として地名を名乗る習慣があり、一条さゆりは柏崎を名乗っていた。これがやがて一条さゆりが生まれ故郷を新潟県柏崎市とするきっかけになったとも考えられる[15]

その後、1959年(昭和34年)には、一条さゆりは銀座のキャバレーホステスから横浜の劇場で踊るダンサーへとへ転向する。ダンサーになったきっかけは当時交際していた男性の手引きであったと見られている。ダンサーとなった一条さゆりは、やがて踊っていく中で陰部を見せる、当時特出と呼ばれていたストリッパーへとなっていく。これはギャラが一般のダンサーよりも特出が段違いに良かったためと考えられている。ほとんどのストリッパーにはヒモと呼ばれる男性がいて、ヒモはパートナーであるストリッパーのためにストリップ劇場の出演交渉、契約、荷物運び、そして炊事洗濯まで担う習慣があった。つまりマネージャー兼彼氏のような存在であった。もっとも彼女であるストリッパーの稼ぎで酒と博打に明け暮れるヒモも少なくなく、一条さゆり駆け出しストリッパー時代のヒモは、そのような質の悪い人物であったとの話も残されている。ダンサーから特出への転向もまた、ヒモが出来てお金が必要となったことがきっかけと見られている[16]。また証言によれば、一条さゆりのヒモは、しょっちゅう変わっていた[17]。また一条さゆりのストリッパー転向は、キャバレーで働いているうちにスカウトされからであるとの証言もある[18]

駆け出しのストリッパー時代の一条さゆりは、本物の孔雀の羽を用いるなどした大きな羽飾りをつけて舞台に立っていた。羽飾りは費用がかさむため、一条さゆりは衣装代に大金を投じていた。まだストリッパーとしては未熟な点も多かったものの、ステージは真剣にこなし、可愛らしさがあって見栄えもする良い踊りであったという。またこの駆け出し時代、赤羽マリという名前でステージに上がっていたとの記録がある[19]

基本的にストリッパーは全国各地のストリップ劇場を廻っていく。駆け出し時代、一条さゆりの出演したストリップ劇場は名古屋や関西方面が多かった。1963年頃になると特出の流行に警察が取り締まりを強化するようになる。中でも名古屋を中心とする中京圏の警察は厳しく摘発した。その頃、名古屋周辺のストリップ劇場を中心に廻っていた一条さゆりは、その厳しい警察の摘発の影響をもろに被ることになる。1963年から64年にかけて立て続けに5回逮捕され、最初の3回は罰金刑で済んだものの、後の2回は執行猶予付きの有罪判決を受けることになった[20]。その後一条さゆりはいったんストリップの世界を離れ、愛媛県松山市で生活するようになった[21]

ストリップの世界をいったん離れた理由としてはまず、3回逮捕された結果、次回逮捕されたら実刑となる可能性が高くなったことが挙げられる。その他の理由としては、男に松山の芸者の置屋にやらされた、また好きになった男性を追いかけて松山まで行ったところが、当てが外れてやむなく松山に留まって芸者をすることになった等、言われている[22]。また松山での生活中に、一条さゆりは電車に飛び込み自殺を図るも未遂に終わったとされる。自殺未遂の話は姉からの証言もあるため事実と考えられるものの、その詳細ははっきりとしない[23]

復活、そしてスターに[編集]

出演映画[編集]


書籍[編集]

論文[編集]

関連書籍[編集]

  • つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人(つげ義春筑摩書房ISBN 978-4480425447 ※本人が解説を寄せている。
  • ドキュメントまいど・・・「日本の放浪芸」 一条さゆり・桐かおるの世界 〜小沢昭一が訪ねたオールA級特出特別大興行〜 (監修・小沢昭一)P470〜472 - 本人のステージの模様が記載されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 生前、1937年1月29日生まれと称していた。
  2. ^ 自称であり、埼玉県川口市出身説が有力である。
  3. ^ 加藤(2001)pp.119-123
  4. ^ 週刊新潮(1997a)p.92、加藤(2001)pp.120-121
  5. ^ 加藤(2001)pp.121-123
  6. ^ 加藤(2001)pp.123-125、p.131
  7. ^ 加藤(2001)pp.124-125、pp.133-134
  8. ^ 週刊新潮(1997a)p.92、加藤(2001)pp.127-128、pp.134-139
  9. ^ 加藤(2001)pp.138-140
  10. ^ 加藤(2001)pp.147-148
  11. ^ 加藤(2001)pp.150-153
  12. ^ 加藤(2001)pp.150-157
  13. ^ 加藤(2001)p.150、p.159
  14. ^ 加藤(2001)p.172
  15. ^ 週刊新潮(1997b)p.80、加藤(2001)pp.172-173
  16. ^ 加藤(2001)pp.174-181
  17. ^ 加藤(2001)pp.180-181
  18. ^ 週刊新潮(1997b)p.80
  19. ^ 週刊新潮(1997b)pp.80-81、加藤(2001)pp.181-182
  20. ^ 加藤(2001)pp.181-185
  21. ^ 加藤(2001)p.185
  22. ^ 駒田(1971)p.37、加藤(2001)pp.184-186
  23. ^ 加藤(2001)pp.189-191

参考文献[編集]

  • 朝倉喬司「日本芸能史に名を遺した一条さゆりの死」『中央公論』112(11)、中央公論社、1997
  • 石綿利康、杉浦正健、小沢昭一「一条さゆり以後の一条さゆり」『季刊藝能東西 遠花火号』新しい芸能研究室、1977
  • 小倉孝保「初代一条さゆり伝説 釜ヶ崎に散ったバラ」葉文館出版、1999、ISBN 4-89716-089-8
  • 小沢昭一「私のための芸能野史」芸術生活社、1973
  • 小野誠之「私の恋人・一条さゆりさん」『思想の科学』32、思想の科学社、1974
  • 加藤詩子「一条さゆりの真実 虚実のはざまを生きた女」新潮社、2001、ISBN 4-10-442801-4
  • 神代辰巳、斎藤博、シナリオ編集部「「一条さゆり・濡れた欲情」から12年、いま新しい神代世界が展開『美加マドカ 指を濡らす女』創作ノート(神代辰巳特集)』シナリオ40(5)、シナリオ作家協会、1984
  • キネマ句報編集部「日本映画ベスト・テン」『キネマ句報』598、キネマ句報社、1973
  • 孝学靖士「一条さゆり・裸の人生」六月社書房、1973
  • 駒田信二「一条さゆりの性」講談社、1971
  • 駒田信二「一条さゆりとの出会い」『季刊藝能東西 遠花火号』新しい芸能研究室、1977
  • 駒田信二「ストリップと性的舞踊」『芸双書3 ストリップの世界 さらす』白水社、1981
  • 斎藤智恵子「初代一条さゆり 誰も真似できなかった秘芸“溢れでる液体”」『文藝春秋』76(12)文藝春秋、1998
  • 週刊新潮「特別記事 ストリップの女王 実録・一条さゆり『凄絶の生涯1』」『週刊新潮』42(39)新潮社、1997a
  • 週刊新潮「特別記事 ストリップの女王 実録・一条さゆり『凄絶の生涯2』」『週刊新潮』42(39)新潮社、1997b
  • 週刊新潮「特別記事 ストリップの女王 実録・一条さゆり『凄絶の生涯3』」『週刊新潮』42(39)新潮社、1997c
  • 週刊新潮「特別記事 ストリップの女王 実録・一条さゆり『凄絶の生涯 最終回』」『週刊新潮』42(39)新潮社、1997d
  • 新評社編集部「一条さゆり公判・実況中継」『新評』20(3)、新評社、1973
  • 杉浦正健「一条さゆり裁判を考える」『芸双書3 ストリップの世界 さらす』白水社、1981
  • 竹中労「法、法ならざれば一条さゆり」『展望』168、筑摩書房、1972
  • 田山力哉、浅野潜「神代辰巳監督の『一条さゆり濡れた欲情』日活ロマン・ポルノの自信と居なおりの精神の萌芽」『キネマ句報』593、キネマ句報社、1972
  • 中谷陽「おお特出し」立風書房、1976
  • 藤本義一、成瀬国晴、一条さゆり「義一ちゃんのケッタイな体験 名ストリッパー一条さゆりさん」『週刊読売』31(15)、読売新聞社、1972