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脱亜論』(だつあろん)とは、福澤諭吉が創刊した『時事新報』紙上に1885年明治18年)3月16日掲載された無署名の社説を指す。西洋文明の受容を拒んで旧弊に固陋する中国・朝鮮と日本が決別すべきことを論じた。

福澤の死後である1933年昭和8年)に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録されたため、「脱亜論」は福澤が執筆した社説と考えられるようになった[1]

1951年昭和26年)に遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)[2]以降、日本帝国主義によるアジア侵略・朝鮮植民地化に福沢が思想的に支持を与え、脱亜入欧論を唱えたものかどうか、社説執筆者の特定を含めて日中朝で論争となった。

社説概要[編集]

第1段落[編集]

まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。

第2段落[編集]

不幸なるは近隣に国あり」として、支那、現在中華人民共和国)と朝鮮李氏朝鮮、現在韓国北朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。そして、甲申政変を念頭に置きつつ[1]両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。

その上で、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本国の一大不幸」であると危惧する。そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、東アジアの悪友とは縁を切って近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。

「脱亜論」執筆の背景[編集]

福澤諭吉と朝鮮との関係[編集]

1881年明治14年)、王命により紳士遊覧団を組成しこれに同行して訪日した開化派金玉均と親交を結んだ福澤は、同じく紳士遊覧団の随員として来日した兪吉濬柳正秀慶応義塾に留学生として受け入れた[3][4]。彼らは朝鮮近代における正式な日本留学生の第1号であった。福澤は兪を通じて朝鮮への理解を深め、諺文(ハングル)使用が朝鮮近代化と民衆の教化に必要と考えていた。[5][6]

福澤は同年9月に出版された『時事小言』で、朝鮮の西洋諸国からの軍事的保護と、近代化への文化的誘導の必要性を主張した。

『時事小言』p.211
「今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫るその有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国、殊に我近隣なる支那、朝鮮等の遅鈍にしてその勢に当ること能わざるは、木造板屋の火に堪えざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非ずして自から為にするものと知るべし。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に傚(ならい)て近時の文明に入らしめざるべからず。或は止むを得ざるの場合に於ては、力を以てその進歩を脅迫するも可なり。」

1882年明治15年)7月23日に日本公使館が襲撃され日本人が殺害された壬午事変が発生し、その事後処理のため同年9月に朴泳孝を正使とし金玉均を含む修信使が来日した。日本の文物を視察しながら朝鮮近代化の方策を模索していた修信使一行は福澤を訪問し朝鮮近代化を推進するための要員斡旋を依頼した[7]。同年9月8日付け『時事新報』掲載の論説「朝鮮の償金五十萬園」で「今朝鮮国をして我国と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全国の人心を一変するの法に由らざる可らず。即ち文明の新事物を輸入ること是なり。海港修築す可し、灯台建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、鉄道を敷き、汽船を運転し、新学術の学校を興し、新聞紙を発行する等、一々枚挙す可からず」と説き、朝鮮開化の具体的手段の一つとして新聞発行に同意した修信使に慶応義塾出身の牛場卓蔵高橋正信を学事顧問名義で斡旋する[8] とともに、朝鮮事情調査を目的として福沢家で書生をしていた井上角五郎を同行させた[9]。また、福澤は発行する新聞に漢諺混合文の採用を強く推し、自費でハングル活字を鋳造させていた。[5]

1883年1月に牛場・井上らを伴って朝鮮に帰国した朴泳孝は漢城府判尹(知事)に就任し、国王高宗から漠城府主導下に新聞を発行する許可を得たものの、守旧派の巻き返しにより間もなく左遷されて新聞発行は頓挫し、牛場と高橋の両名は帰国した。残った井上は統理交渉通商事務衙門協弁(外務次官)金允植の知遇を得て同年6月に外交顧問、新聞発行の主体となった博文局主任となり、10月に朝鮮近代で最初の新聞である『漢城旬報』発行にこぎつけた。しかし、1884年1月30日付け第10号掲載の清国兵の横暴を諌める記事「華兵犯罪」が清国勢力に咎められ、井上は責任を取る形で辞任、帰国に追い込まれた。[5][10]それでも、日本の外務省の支持を受けて井上は同年7月に朝鮮に再渡航し、朝鮮の外務顧問と博文局主任の地位に復し、井上の離任後暫くして休刊となっていた『漢城旬報』を再刊したが、程なくして12月4日に甲申政変が起き、これにが介入し、新聞印刷所も焼き討ちにあって廃刊。新聞発行の支持基盤であった開化派は一掃され、井上は12月11日に朝鮮を離れた。[5]

『脱亜論』の真の執筆者ではないかとも目される(後述)石河幹明は『福沢諭吉伝』で、井上角五郎の証言として「金朴の一挙に就ては先生は啻(ただ)に其筋書の作者たるに止まらず、自ら進んで役者を選み役者を教へ又道具立其他万端を差図せられた事実がある」と記し、福澤が甲申政変に深く関与したものとしている。また、クーデターに失敗した金玉均、朴永孝ら6名が日本に亡命しようとしたが、朝鮮問題を契機として日清間に戦争が勃発することを恐れた日本政府の竹添進一郎駐朝鮮公使は日本政府の責任になることを恐れて公式には拒否したため、福澤の意を受けていた井上角五郎は彼らを密かに日本に亡命させ、数ヵ月間福澤邸にかくまっている。[4][11][12]

「脱亜論」掲載前の論説[編集]

「脱亜論」の約3週間前の2月23日2月26日に掲載された論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」がある。

平山洋は『福沢諭吉の真実』において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていると主張している。また、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している。

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。

「脱亜論」掲載後の論説[編集]

「脱亜論」の5ヶ月後の8月13日に掲載された論説に、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」がある。政府による「一国民としての栄誉、生命と私有財産の保護」が行われない現状であるならば、朝鮮に支配の手を伸ばしているイギリスロシアの法治にある方が、朝鮮人民にとっては幸福ではないかと逆説的な主張をしている。この論説の結尾はこの通りである。

「故に我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり。」

この社説を掲載したため、『時事新報』は1週間の発行停止処分を受けた。福澤はこの社説の続編として「朝鮮の滅亡は其国の大勢に於て免るべからず」を執筆していたが、これは掲載できず、現在までその自筆原稿が残されている。[13]

脱亜論の評価[編集]

日本での評価[編集]

日本の初等・中等教育の歴史教科書においても、「脱亜論」社説を「日本が欧米列強に近づくためにアジアからの脱却を唱えた物で、日本がアジアの1ヵ国であることを否定している」と定義付け、「日本人がアジアを蔑視する元となった脱亜入欧の代表的言説」と教えていることが多い。が、この論文に至った甲申事変や当時の歴史背景を教えていない事も多く、「脱亜論」の一部だけを取り上げて、「脱亜論」社説を正しく解釈していない、と言う意見も存在する。

丸山眞男は、福沢が実践的にも早くからコミットしていた金玉均ら朝鮮開化派による甲申事変が三日天下に終わったことの失望感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する焦立ちから、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する[14]

また、丸山は、福澤が「脱亜論」を執筆したと仮定しても、福澤が「脱亜」という単語を使用したのは「脱亜論」1編のみであると指摘した。それゆえ、「脱亜」という単語は福澤においてはキーワードでないと述べた。さらに、「入欧」という単語に至っては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)一度も使用したことがなく、したがって「脱亜入欧」という成句も福澤が一度も使用していないことを指摘した[15]

福沢諭吉書簡集』の編集委員であった西川俊作は、「この短い(およそ2,000字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である」と指摘する[16]

坂本多加雄は、甲申政変の失敗と清国の強大な軍事力を背景にして、「「脱亜論」は、日本が西洋諸国と同等の優位の立場でアジア諸国に臨むような状況を前提にしているのではなく、むしろ逆に、朝鮮の一件に対する深い失望と、強大な清国への憂慮の念に駆られて記された文章ではないか」と説明する[17]

坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない」と主張している[18]

安川寿之輔は、初期の福澤の思想にも国権論的立場を見出し得るのであるから、「脱亜論」がそれ以前の福澤の考えと比較して特段異なるものとはいえないと指摘する。

平山洋は、「脱亜論」が甲申政変とその後の弾圧に対する影響で書かれた社説であることに注目して、「第二次世界大戦後になって、「脱亜論」中の、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」(全10二百四十頁)とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」とかいった記述がことさらに取り上げられることになったが、そうした表現は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に対する批判にすぎなかったのである。こうした時事的な部分を除いてしまえば、「脱亜論」は、半開の国々は西洋文明を取り入れて自から近代化していくべきだ、という『文明論之概略』の主張と少しも変わらない」と解説している[19]

小説家の清水義範は、小説中の文学探偵が「脱亜論」を読んだ感想として、「日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮と袂を分かたなければいけない……それが脱亜という選択肢である」と語らせている[20]

他には、興亜論へのアンチ・テーゼとして「脱亜論」が発表されたとの考えもある[21]

中国・韓国での評価[編集]

中国韓国では、「脱亜論」は「アジア蔑視および侵略肯定論」であり、福澤は侵略主義者として批判的に取り上げられている。一例として、林思雲の論文「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」中で言及されている中国内での理解、そして韓国の新聞中央日報に掲載された金永熙(キム・ヨンヒ)国際問題記者執筆の2005年11月25日のコラム「日本よアジアに帰れ」[22]がある。

起稿者の認定[編集]

最近の研究では、「脱亜論」が時事新報に掲載された無署名論説であることに着目した論説執筆者判定が展開されている[23]

井田進也井田メソッドを駆使して「脱亜論」関連論説の起稿者の認定を行った。井田メソッドとは、無署名文において使用される語彙や言い回しの特徴を分析して起稿者の認定を行う方法である。起稿者の認定は、関与の多い方から5段階のA、B、C、D、Eで表す。井田は『歴史とテクスト――西鶴から諭吉まで』(光芒社、2001年)の104頁で、「脱亜論」の認定を行い、「『脱亜論』の前段には福沢的でない『東洋に國するもの』、ごく稀な『力めて」『揚げて』、高橋の『了る』(福沢は稀)『横はる』が散見し、自筆草稿が発見されぬかぎり高橋が起稿した可能性を排除できないから、前回同様、福沢が高橋の原稿を真っ黒に塗抹したものとして、ほとんどAとしておこう。」と結論付け、時事新報記者で社説も執筆していた高橋義雄が起稿した可能性を排除できないとした。

さらに同書105頁から「脱亜論」関連論説の起稿者の認定も行っている。「脱亜論」関連論説の認定結果の一覧表を引用する。高橋は前出の高橋義雄、渡辺も高橋と同じく時事新報記者で社説も執筆していた渡辺治のことである。

「脱亜論」関連論説の起稿者認定結果
論説名 推定起稿者 評価
1 「外交論」「一」~「五」 自筆草稿あり
4 「脈既に上れり」 高橋 C
5 「東洋の波蘭ポーランド」(第一日) 高橋 E
(第二日) 高橋 C
6 「支那風擯斥す可し」 福沢 A
7 「輔車唇齒の古諺恃むに足らず」 渡辺 D
10 「支那を滅ぼして欧州平なり」 高橋 C
11 「軍費支弁の用意大早計ならず」 高橋 D
12 「戦争となれば必勝の算あり」 渡辺・高橋 E
13 「御親征の準備如何」 高橋 D
14 「国交際の主義は脩身論に異なり」 福沢 A
15 「脱亜論」 高橋? A

「脱亜論」社説をめぐる議論の歴史[編集]

以下、静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋による『福沢諭吉の真実』(文春新書ISBN 4-16-660394-9)、pp.82-85、pp.193-239 からの情報を要約する。

  1. 1885年3月16日脱亜論は新聞『時事新報』の社説として掲載された。原文は無署名の社説で、本文はカタカナ漢字表記、長さは400字詰原稿用紙で約6枚である。(pp.195-196)
  2. 1885年には、「脱亜論」に対するコメントは見つかっていない。平山の調査によると、1885年3月16日以後の『時事新報』には、「脱亜論」に関する引用は発見されていない。また、1885年3月17日から3月27日にかけて、新聞『東京横浜毎日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』にもコメントが発見されていない。その結果、平山は1885年には「脱亜論」は何の反響も引き起こさなかったと推定している。(p.203)
  3. その後、1885年から1933年まで「脱亜論」に関するコメントは発見されていない。そのため、平山は、「脱亜論」は48年間、忘れられていたと推定している。(p.203)
  4. 1933年7月、「脱亜論」が慶應義塾編『続福澤全集』(岩波書店)に収録された。1933年から1951年までの間、「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。(pp.204-208)
  5. 平山の調査によると、「脱亜論」に関する最初のコメントは、1951年11月に掲載された、歴史学者遠山茂樹による「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究〈第6号〉』)の中に発見された。遠山は、「脱亜論」を日本帝国主義のアジア侵略論と紹介した。(pp.209-210)
  6. 2番目のコメントは、1952年5月に発行された、歴史学者服部之総による「東洋における日本の位置」(『近代日本文学講座』、河出書房)の中に発見された。(p.214)
  7. 3番目のコメントは、1953年8月に発行された、歴史学者服部之総による「文明開化」(『現代歴史講座』、創文社)の中に発見された。(p.217)
  8. 4番目のコメントは、1956年6月に発行された、歴史学者鹿野政直による『日本近代思想の形成』(新評論社)の中に発見された。(p.218)
  9. 1960年6月に、富田正文土橋俊一編纂の『福澤諭吉全集〈第10巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録された。
  10. 5番目のコメントは、1960年6月に発行された、地理学者飯塚浩二による「アジアと日本」(『アジアのなかの日本』、中央公論社)の中に発見された。(pp.219-220)
  11. 6番目のコメントは、1961年6月に発行された、政治学者岡義武による「国民的独立と国家理性」および中国文学者竹内好による「日本とアジア」(『近代日本思想史講座』、筑摩書房)の中に発見された。(pp.220-224)
  12. 1963年8月に、竹内は『アジア主義』(現代日本思想大系第9巻)(筑摩書房)の解説「アジア主義の展望」に「脱亜論」の全文を引用している。(pp.221-222)
  13. 1967年4月に、西洋思想史研究者河野健二の『福沢諭吉——生きつづける思想家』(講談社)が発行された。1967年12月に、鹿野政直による『福沢諭吉』(清水書院)が発行された。両書は「脱亜論」へのコメントを含む新書版であったため、以来、「脱亜論」は日本帝国主義の理論として有名になった。(pp.224-225)
  14. 1970年代には同様なコメントをつけた論説が多く発行された。(pp.226-227)
  15. 1981年3月に、政治学者坂野潤治は『福沢諭吉選集〈第7巻〉』(岩波書店ISBN 4-001-00677-4)の解説で、「脱亜論」の新しい解釈を提示した。坂野は「脱亜論」を朝鮮近代化の挫折に対する敗北宣言と解釈した。(p.227)
  16. 1996年比較文学者井田進也は文体と語彙による起筆者判定方法(井田メソッド)を開発した。井田は『時事新報』の無署名論説に井田メソッドを適用して起筆者を判定している。(p.239、pp.82-85)

脚注[編集]

  1. ^ a b 平山洋福沢諭吉の西洋理解と「脱亜論」」『西洋思想の日本的展開—福沢諭吉からジョン・ロールズまで』西洋思想受容研究会、慶應義塾大学出版会、2002年 ISBN 978-4766409512 を参照。
  2. ^ 平山洋 『福沢諭吉の真実』文藝春秋文春新書〉、2004年 ISBN 4-16-660394-9 の第五章を参照。
  3. ^ 1881年6月17日付小泉信吉・日原昌造宛書簡「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中壮年二名本塾に入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前自分の事を思へば同情相憐むの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るゝの発端、実に奇偶と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く付合開らける様に致度事に御座候」(『福沢諭吉全集』第17巻(岩波書店・1961年11月)p.454)
  4. ^ a b 慶應キャンパス新聞・2007年1月10日号「塾統~慶應義塾の伝統 第14回 朝鮮独立運動志士 金玉均
  5. ^ a b c d 稲葉継雄「井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に」筑波大学『文藝言語研究. 言語篇』vol.12, pp.209-225
  6. ^ 壬午事変当時の初代駐朝鮮公使・花房義質と福澤は同じ緒方洪庵適塾に学んだ同門
  7. ^ この時の修信使随行者からも2名を日本語習得のため慶應義塾に受け入れている。
  8. ^ 福澤は朝鮮に送った牛場らの目的を1883年1月11/13日付け『時事新報』社説「牛場卓造君朝鮮に行く」で次のように述べている。
    我日本人が今日朝鮮の関係より支那人に対するの方略は、富強の道固より怠るべからず、財政整理せざるべからず、兵備拡張せざるべからずと雖ども、是れは自から当局者の在るありて直接に我輩の関係する所に非ず、又之に関係することをも好まず。我輩は本来学者を以て世に立つものなれば、唯学者の本色を以て支那人に対し又朝鮮人を誘導せんこと、特に牛場君に希望する所なり。(略)
    蓋し人の常談に国威を海外に耀かすと云へば、唯兵馬の略のみに解する者多しと雖も、国威の輝く、単に兵力のみに依頼す可らず。学問上の力を以って人心の内を制すること亦甚だ大切なり。或いは之を学問の文権と云ふも可ならん。我輩の素志は文権を拡張して文威を海外に耀にあり。而して今其端を開く者は牛馬君の一行なり。君に望む所のもの多ならざるを得ざるなり。
  9. ^ 福澤は井上を朝鮮に送るにあたり井上に対して次のように述べたという。(『井上角五郎先生伝』pp.35-36.)
    僕は朝鮮をして完全に独立させたいと思ふ。たとへ独立し得るとも或は然らずとも、兎も角も日本以外の国々をして断じて朝鮮に手を出さしめる訳には行かぬ。日本が独り之に当るのが日本の権利であって亦その義務である。(略)
    我々はこの場合に於いて猶退いて一小孤島を守つて我慢が出来るであろうか。若し進んで足を大陸に掛け、欧米各国の勢力を駆逐するのを考を持たなかつたなら、一小孤島すらその独立を脅かされるかも知れぬ。
    近東に於いて支那も朝鮮も共に強力一致して西力東漸の勢ひを防ぐべきである。
    しかし少なくとも朝鮮を我が勢力範囲の下に置いて緊密に提携し、万一にも支那と同一の運命に陥らしめるやうなことがあつてはならぬ。
    これが為に武力は最も必要である。しかし、武力の事は之を当局に任せるとして、文力もまた大いに必要である。
  10. ^ 慶應キャンパス新聞・2007年1月10日号「塾統~慶應義塾の伝統 第42回「政治家・実業家」井上角五郎
  11. ^ 亡命したのは金玉均、朴泳孝、徐光範、柳赫魯、柳圭完、辺燧、申應煕、鄭蘭教の9名。
  12. ^ 石河幹明『福沢諭吉伝』(第三巻p.346.、岩波書店、1932年)では、「先生はこれを玄関に迎えて握手し『よく生きていたお目出度う」と言い、シャムペンで無事を祝した。」と記す。
  13. ^ 朝鮮の滅亡は其国の大勢に於て免るべからず」『福澤諭吉全集 第10巻』岩波書店、1960年、pp.382-387
  14. ^ 丸山眞男 「『福沢諭吉と日本の近代化』序」『福沢諭吉の哲学 他六篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年ISBN 978-4003810415 282 - 283ページを参照。
  15. ^ 丸山眞男 『福沢諭吉の哲学 他六篇』 岩波書店岩波文庫〉、281-282頁。ISBN 4-00-381041-4
  16. ^ 『福沢諭吉著作集〈第8巻〉』、慶應義塾大学出版会、2003年、402ページ、ISBN 978-4766408843。395ページからの西川による解説のうち、特に401ページ「福沢諭吉にとっての朝鮮問題」以降を参照。「脱亜論」前後の時事新報諸論説がコンパクトに解説されている。
  17. ^ 坂本多加雄 『新しい福沢諭吉』 講談社〈講談社現代新書〉、1997年、216ページ、ISBN 978-4061493827。214ページから217ページまでの「「脱亜論」をどう読むか」を参照。
  18. ^ 坂野潤治 「解説」『福沢諭吉選集〈第7巻〉』 富田正文編、岩波書店、1981年、337-338頁、ISBN 978-4001006773。331-335頁の4章における「アジア改造論」の解説と、336-338頁の5章における「脱亜論」の解説を参照。
  19. ^ 平山洋 『福澤諭吉——文明の政治には六つの要訣あり』 ミネルヴァ書房、343頁。ISBN 978-4-623-05166-3
  20. ^ 清水義範 『福沢諭吉は謎だらけ。心訓小説』 小学館、2006年、229頁、ISBN 978-4093861670。「八、ついに福沢諭吉の最大の謎にぶつかる章」の224-235頁を参照。
  21. ^ 林思雲 「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」の第六段落、第七段落、第八段落、第九段落に、興亜論の簡易な説明が掲載されている。当時の考えに直接当たるのであれば、樽井藤吉著『大東合邦論』がある。アジア主義も参照。
  22. ^ 「日本よアジアに帰れ」
  23. ^ 井田進也『歴史とテクスト―西鶴から諭吉まで』、光芒社、2001年、ISBN 978-4895421898を参照。高橋義雄起草・福沢諭吉加筆または福沢諭吉単独執筆が展開されている。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]